ある日の夜、霙は何となくあの屋敷に立ち寄っていた。慣れたようすで部屋を散策し、訪れたリビングの隅。僅かに寝息の音が聞こえる。
音が鳴るのは、どうやらソファ付近。気になって近づいてみると、そこには身体を小さくまるめて眠るしずりがいた。
部屋に戻る前に、力尽きて眠ってしまったのだろう。彼の気配に気づかないその気の緩んだ顔は、いつもよりもあどけなく見えた。
(すこし、だけ……)
――興味が湧いた。
柔らかそうな透き通った頬や、さらりとした細くて長い髪に、触ってみたいと思った。
どんな反応をするのか、気になった。
彼女は未だに目を覚まさない。本当はいけないことだって分かっている、それでも。一度疼きだした好奇心はそう簡単に止められなくて。
横になる彼女に覆い被さるように右手をつくと、ギシリ…、とスプリングの鳴る音と共に、ソファが沈み込む。空いた片手で優しく彼女の顔を持ち上げて、彼はゆっくりと触れるようなキスをした。
なお眠り続ける彼女をいいことに、その口づけはさらに深みを増していく。力なく閉まる口を開けるのは容易くて、這わせた舌で無理矢理その小さな唇を抉じ開けた。
詰まるような息苦しさに、しずりの顔が僅かに歪む。眉を寄せ、しばらく苦悶の表情を見せていた彼女の瞳が薄く開かれた。まだぼやりと意識の揺れる中で見えるのは、これまでにない程に近い彼の顔で。途端、彼女の目が大きく見開かれる。自分の置かれた状況に、覚醒した脳が知らせた、危険信号。
「……ッおま、え……なに、……っん…、…!」
執拗に求めてくる彼から逃れようとするが、幾分も体格の違う男に力で敵うはずもなく。彼の胸板に押し当てた腕は、大きな手のひらに掴まれてそのままソファに縫い付けられてしまう。呼吸のままならない身体は空気を求め、彼女の口からは苦し気な吐息が漏れた。
「…は、っ……、」
「しず、り……」
「……、っ」
「…しずり」
彼が初めて呼ぶ、彼女の名前。
しかし、酸素の足りていない頭でその呼び掛けに応えることは難しく、今の彼女には息をするのが精一杯で。
自分の下で、余裕のない表情で肩を揺らす彼女に、彼は少し優越感のようなものを感じた。いつもの強気な態度とは違って弱々しく見える彼女は、どこにでもいるような普通の女の子で。キスひとつで微かに赤く火照る頬。幼い顔をしているのに、憂いを帯びてどこか扇情的なその目は、霙の胸をとくりと高鳴らせた。
――もっと、見たい。
気づけば、彼女を縛っていた手が動いていた。ベルトで止められていた衣服を捲し上げ、その隙間にするりと手を滑り込ませる。それに気づいた彼女が何か言おうとしていたが、もう一度口を塞いで紡がれるはずだった言葉を奪い取った。
吸い付くような肌を撫で上げれば、彼女はピクリと身体をよじらせその手を抑え込もうとする。当然、力の入っていない腕でそれを止められるわけもなかった。
時折漏れる彼女の上擦った声に気をよくした彼は、合わせていた唇を今度は首筋へと伝わせる。触れたそこを強く吸い上げれば、またひとつ控えめに啼く声が聞こえた。
いつも交わす彼女たちとは違った、小さくて細い身体。いつも求めてくる彼女たちとは違って、抵抗して拒もうとする非力な手。強く抱き締めたら、あっさりと折れてしまいそうな程に、彼女は無力で。
自分の動きひとつひとつに反応して、普段とは違った表情を見せる彼女に、不覚にも――、
(……か、わいい)
ほんの少しで終わるはずだった興味は歯止めが効かず、さらに加速していく。もっと彼女の声が聞きたくて、もっと違う顔を見てみたくて。段々上がる息と共に、彼女の足へ手を伸ばす。折り重なるスカートを捲り、太ももに手を這わせた時、彼はあることに気づいた。
――彼女の身体が、小刻みに震えていたのだ。
両腕で顔を隠すようにして声を抑える彼女の頬は、涙で濡れていた。乱れた服の隙間から見えるいくつもの赤い痕に、霙は自分の侵した過ちを今さら思い知る。……一番、やってはいけないことをしてしまった。
「っごめ、おじょうさ……、」
「…っ、ふ……すぐに、ここから…っ、出ていけ…! ……ッ顔も、見たくない……!!」
「……ッ、」
時間を巻き戻せたらどれほどよかったか。
でも、いくら後悔しようとも、過去に遡ることなんて出来やしない。
視線を合わせず、明らかに拒絶を示す彼女を残して、霙は静かにリビングをあとにした。
「……ほんとに、ごめん…」
閉めた扉の中では、音を潜めてすすり泣く彼女の声が聞こえていた。
◆◇◆
「……未成年、襲うとか…マジ俺、最低……。しかも、寝込み……、」
次の日の朝、霙は一睡も眠ることが出来ないでいた。彼女の泣いた顔が脳裏に焼きついて、離れないのだ。泣いていた。あのしずりが、涙を流していた。
何処かへ遊びに行く気には到底なれず、昨日彼女が横になっていたソファに寝転がる。拒絶する彼女の言葉を思い出して、ふと、昔の記憶が蘇った。
(……また、いなくなる。あの時、みたいに…)
分かっていたことではないか。きっと、彼女だって。……でも、今回は全て自分のせいだ。自業自得、そうなったって仕方のないこと。ちゃんと、謝らなければ……本当に、酷いことをした。
「…はよ」
「っ、え!? あっ、お…、はよ……」
ぼう、と考え事をしていたとき。突如、頭上から掛けられた聞き覚えのある声。驚いて反射的に身を起こすと、そこには背もたれに片手を乗せて佇む、しずりの姿があった。
返事は、したものの。昨日の気まずさから、霙は彼女の目を見ることが出来なかった。さ迷わせて、落とされる視線にしずりは分かりやすく溜め息を吐く。それにビクリと肩を揺らす彼に、彼女は呆れたようにもう一度、小さな溜め息を吐いた。
「……昨日は、悪かったな。あたしも、ちょっと…言い過ぎた」
「…え、」
「あれは、もう…犬に舐められたとでも思って……、忘れる。いつもヘラついてる癖に、あからさまに落ち込んでんじゃねーよ。こっちまで暗くなるだろ。だから、お前もさっさと忘れろ」
いいな、と念を押すように一言付け加えると、少しだけ顔を赤くした彼女はその場からいなくなった。…わざわざそれを言いに来たのか。こっちが言わなければ、いけないようなことを。
彼女の立ち去る背中を見つめていた霙だったが、その言葉の意味を理解してぐしゃりと前髪を掻き上げる。
「……なんで、謝んの。どう考えても、俺が悪いじゃん…」
……また、言えなかった。
彼女のことだ、どうせまた、周りのことを優先させている。ずっと俺がこんな調子でいたら、じいさんにまで迷惑を掛けてしまうから。だから、彼女は。
忘れる、だなんてそんな一言で済ませられないような、怖い思いをしたはずなのに。自分の背丈よりも遥かに大きい男に襲われて、そんなの怖いに決まっているのに。
……彼女は、あまりにも優しすぎる。
優しく、しないでほしい。 愛想をつかして、見放して、遠ざけてくれればいい。
そうしないと、また…、
「どうしよ、俺……」
依頼人と護衛人。信頼を築きだした二人の関係。それと同時に、彼の心に芽生え始めた秘密の気持ち。
頭を抱えた彼の頬が、赤く染まる意味…、
果たして、それは――。