「お前、浮気とかされても気付かなさそうだよなぁ」と喫煙所で煙を吐き出しながら霊幻さんは言った。俺はその言葉を思い出していた。彼女はアクビをしながら指先のささくれを剥いていた。血が出るからやめなよって言ったのに。テーブルには彼女のアイフォンが無防備に置きっぱなしになっていて、黄色いカバーを付けたその液晶の中身には、たくさんの秘密が詰まっている。夢や希望じゃなくて、秘密。何か喋ろうとしたけれど、口の中が乾いて言葉が出て来ない。誰か助けてくれと思ったけれど、誰に助けてもらいたいのか分からないし、助けてくれそうな知り合いもいなかった。

「いま胃腸炎流行ってるんだって」
「‥‥うん」
「うわ、克也くん変な声。酒焼け?」
「昨日、飲み過ぎた」
「へぇ〜」
「ねえ」
「ん?」
「‥‥浮気してるの?」

その声を吐き出す代わりに、胃の辺りにこの世の終わりみたいな感情が充満した。彼女が「え?」と聞き返したけれど、それ以上喋ったら涙かゲロか分からないけど、どこかしら何かしら吐きそうで喋れなかった。





「え?」と反射的に聞き返したけれど彼はなにも返事をしなかった。恐る恐る視線を上げて目を見ると、見る見るうちに涙が溜まってつぅーと彼の頬を一筋流れた。そうして本格的に泣き始めた。「ご、ごめ、でも、うっ、うぅ」と何か言おうとしているものの嗚咽に遮られている。泣くなよ男だろ。

「浮気なんて、する訳ないじゃん」
「ケータイ見た。他の男とセックスの相性語り合った履歴は、消しておいた方がいいよ」

終わった。言い逃れできなかった。誰になんて送ったやつだろう、またしようね、とか、気持ちよかったよ、みたいな文面にピンクのハートを散りばめたやつかな。別にあれ過剰に猫被ってる訳じゃなくて、ただ相手の男が好きそうな事送っただけなんだよ。‥‥言い訳のポイントが違うか。ていうか言い訳の仕様が無いか。窓ガラスに目を向けると、自分でもクソみたいな女だなと思うくらい無表情だった。彼はまだ泣いていた。女に泣かされた男と、男を泣かせた女がそこにいた。



俺みたいな男が女の子と付き合えたんだから、充分だと思っていた。それでもやっぱり涙が止まらなかった。いい歳して、年下の女の子の前で号泣する日が来るとは夢にも思わなかったな。頭だけが冷静だった、彼女の表情も冷静だった。下を向いたまま「なんで」と呟くと「ごめんね」と掠れた声が聞こえる。好きだったのに、こんなに。母ちゃんだって、喜んでくれてたのになぁ。霊幻さん、「浮気されても気づかない」んじゃなくて、「浮気されてないから気づきようがない」だけなんですよ。次の出勤日にそう言ってやろうと思って何気なく彼女の携帯を見ただけだったのに。霊幻さん、俺やっぱり浮気されても気付かない男だったみたいです。俺は唾と嗚咽を飲み込んで口を開いた。

「別れよう」
「そうだね」
「…付き合わなきゃ良かった」
「…そうだね」
「もう、事務所にも来ないで」
「うん」
「さよなら」
「うん」


嘘ばかりだ。


(好きも嫌いも)


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