十二月、そして木の葉は芽吹き、
「——ということで、プロポーズのやり直しを要求する」
「ええー?」
「こういうのは男からやらねえと」
「イマドキ男からしても女からしても正味だれも気にしないよー」
転勤疑惑事件のあと、はプロポーズの「やり直し」をやらせてくれと言った。私としてはどちらがやるべきとかそういったところは歯牙にもかけていなかったのだが、本人はどうにも気になるらしい。
「お前がプロポーズをしたら、俺もする! それが平等ってもんだろ」
「…………そうなのかな?」
謎理論に押し切られ、秋紀くんが満足ならそれでいいか、と思って首を縦に振ったのが三週間前の話。
▽
年の瀬は慌ただしい。年内に片付けておきたい案件のやり取りがハイテンポで進む。
関係先との忘年会も続いてなかなか気が休まらなし、仕事が忙しいと平日は中々家のことが手につかない。廊下の床が裸足で踏めないほどすっかり冷え切ってから、今年が残り片手で数えられる日数しか残っていないことに気がついてももう手遅れだ。
「もう来週は仕事納めかー……」
スマートフォンのホーム画面は十二月二十三日の土曜日の午後一時であることを示している。
私も秋紀くんも連日の飲み会で終電近い時間に帰ってくることも多く、家の中もなんだか書類やら洋服やらで雑然としているような気がする。
秋紀くんは夕食の買い出しに出掛けて行って今はいない。白菜があれば鍋にしようと言っていたから、そちらの準備もしなければ。
プレ大掃除も兼ねて少し片付けるか。そう思い立って、ダイニングテーブルに引っ掛けられたコートを回収するとハンガーにかけた。秋紀くんの着ていたトレンチコートは、鼻を近づけると微かにタバコの匂いがした。秋紀くんはタバコを吸わない。その匂いは営業という仕事の、苦労の匂いも含まれている気がした。
……これは年を越す前にクリーニング行きだ。明日散歩がてら出しに行こう。
溜まりに溜まった洋服たちを全て洗濯機に放り込んで仕上がりを待つ間、私はベッドルームの掃除をすることにした。
この築二十年の1LDKの少しだけ年季の入った私たちだけの城に、私はすっかり愛着が沸いていた。
秋紀くんは一人に戻るのは寂しいと言ったけれど、それは私も同じだ。二人して、二人でいることがとうの昔に“日常”になっていたのだ。
部屋に備え付けられたクローゼットを開けると、スーツやコートがぶら下がっているその下段には段ボール箱が積まれていた。これには何が入っていたのだったか。慎重に引っ張り出して開けてみる。
「……卒アル?」
中に入っていたのは、“梟谷学園高等学校 二〇一二年度”と書かれた分厚い表紙の冊子だった。……秋紀くんの卒業アルバムだろう。
秋紀くんの高校生時代の姿は初めて見るかもしれない。夏に後輩の赤葦さんに見せてもらおうとした時は、彼に恥ずかしいからと妨害されてしまい結局見られなかったのだ。
「私立って五クラスもあるんだ、すご……」
パラパラとめくって見てみると、三年一組のページに知った名前を見つけた。木兎光太郎。本当にあの木兎選手とチームメイトだったんだ。…‥疑ってたわけじゃないけれど。同じアルバムにいるだけで、急に実感が湧いてくるものだ。
「え、木兎さんに髭生えてない……」
満面の笑みで映る木兎さんも、写真が明らかに若い。十一年前の卒業アルバムなのだからそれはそうなのだけれど。
さらにめくると、三組のページに秋紀くんの名前を発見した。写真に映るその姿は、今よりも顔立ちは幼くて、髪が長い。ネクタイも普段きちんと締めていなかったのだろう。首の辺りが窮屈そうに見える。
あの頃、彼は何をしていたのだろう。『受験勉強もしてギリギリまで部活の大会も出てマジで彼女作る余裕とかなかったよな。あの時モテたい欲が爆発してヤバかったから指先でボール回す技習得してモテようとしてた』とは言っていたけれど。
後半のページは、部活ごとの集合写真や行事の時に撮った写真集のようだった。男子バレーボール部のコーナーには、彼らが春高バレーの準優勝トロフィーを掲げて写る姿があった。集合写真には赤葦さんも写っている。
……夏に赤葦さんに会ったとき、こっそり昔の秋紀くんについて聞いてみたことがあった。
『先輩たちは全員、木兎さんに振り回されていましたね。俺も含めてですが』
『そういう感じだったんだ……』
『俺は楽しかったですけどね。その中でも木葉さんは昔から俺みたいな変な後輩の話もちゃんと聞いてくれる、そういう先輩でしたよ』
だから、信用して大丈夫だと思います。俺よりも長く木葉さんと一緒にいるあなたなら、もうご存知だと思いますが。
赤葦さんのその言葉に、嘘はないように思えた。
私はアルバムを閉じる。彼を作り上げた人生の一片を、また少し覗き見ることができた気がした。
その時、部屋の入り口からバサバサと何かが落ちる音がした。振り返ると、顔面蒼白の秋紀くんが買い物から帰ってきたところだった。足元には買ってきたであろう野菜たちが転がっている。
周りに散乱した段ボール箱を見て、何を勘違いしたのだろう。
「……結婚しよう」
秋紀くんはそう、突然私に宣言した。
「…………………え、今?」
「あっ」
秋紀くんは違う、と咄嗟に口元を押さえるが、一度出た言葉は元には戻らない。
「やり直しってこういうこと?」
私がそう尋ねると、彼は力無く膝から崩れ落ちた。
「違う! 違うんです……本当は来週いい感じのレストラン予約してるんです……」
「この人自分でバラしちゃった」
「こんなはずじゃ……」
「というか何でいきなりプロポーズしてきたの」
「え?だって、引っ越す準備してんじゃねえのか……?」
勢いよく顔を上げて、秋紀くんは私に尋ねた。どうやら段ボール箱を見て、私が引っ越しの準備のために荷物の整理をしていると思い込んだらしい。
「引越し?……あー、その件なんだけど……」
私は秋紀くんに座るように促した。彼はカチコチとぎこちない動きで座り、なぜか二人とも床の上で面と向かって正座になる。
「いや、実はね」
「はい」
「転勤の話、なくなりました」
「ええー!? なんでだよ!?」
「今週、課長に事業計画に変更がかかりそうだから一旦ナシで、って言われて。秋紀くん全然家で会わないから伝えるタイミング逃してて……今日の夜話そうと思ってて……」
「なんだよそれー!」
緊張が解けたのか、秋紀くんは姿勢を崩して床に手をついた。
「私も結構真剣に考えてたから拍子抜けしちゃって」
十月に突如降ってきて私たちを目下二ヶ月間悩ませた問題は、上司の『なんか異動なくなるっぽいぞ。よかったな』の一言であっさり片付けられてしまったのである。
「そういうのは早く言え、って……」
そう言いかけた秋紀くんの頬を、一粒の涙が伝っていった。本人も予想外だったのか慌てて袖で拭っていたが、止まる気配はなかった。
「ごめん。泣かせたら彼女失格だね」
「泣いてねえし……」
ぽろぽろと涙を溢す彼の体にそっと腕を伸ばして、抱きしめた。肩越しに鼻を啜る音が聞こえる。
「だからさ……これからも一緒にいてくれる?」
「当たり前だろ」
それが当然だと言わんばかりの言葉が、今はとにかく嬉しかった。ありがとう、と返した私の声も、涙ぐんで滲んでいた気がする。
私たちは少しずつ変わっていく。年老いていくし、もしかしたら家族が増えるかもしれないし、なんであれ時間の流れにゆっくりと押されながら進んでいく。そこには不変など存在しないのだ。
けれどまた、木の葉が芽吹く季節に辿り着くまで、私たちは手を取り合って歩き続けるのだろう。
——いつか死が、二人を分かつまで。
fin.
▽
「あー! お前何勝手に卒アル見てんだよ! 恥ずかしいから見るなって言ってただろ!」
「彼氏って、何歳の時でも可愛く見えるから大丈夫だよ」
「お前の卒アルも見せろ」
「実家に置いてきたからないよ」
「今度実家挨拶行く時にお義母さんに用意しといてもらうからな」
「そ、そんな見たいかなあ?」
「彼女だって、いつ何時でもサイコーに可愛いもんだろうが!」
「褒めてるのか怒ってるのかどっちかにしてよ〜」