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彼氏の無一郎は、ホテルやゲストハウスより旅館を好んだ。古風なもの贔屓な無一郎らしいと思いつつ、私は無一郎との温泉旅行を楽しんだ。年に何回も行けるわけではなかったが、私は無一郎との旅館巡りが好きだった。とりわけ理由があるわけではないのだが、私は無一郎と初めて旅館に行った日風呂上りに待ち合わせした時のことをよく覚えている。

「駄目だよ。それだと死人」
「死人?」

無一郎はおもむろに私の浴衣へ手を伸ばすと、合わせ目を掴んだ。

「左前は死人なんだ。浴衣は右前」
「そっか……」
「今は直せないから、部屋に着いたら直してあげる」

浴衣の着方すら分からない常識のない女だと思われただろうか。私は俯きながら、無一郎に手を引かれて旅館の廊下を歩いた。部屋に着くと、無一郎は私の浴衣の帯を外して前を開いた。「本当は逆だよ」と言いながら、無一郎は右合わせで閉じることなく、そのまま私の体に手を掛けた。初めて二人で外泊をした日の、淡い思い出だった。


あれから何年が経っただろうか。無一郎と私の付き合いは終わり、彼は私の記憶の中の人となった。無一郎と出会うことはもうないだろうし、今では新しい彼氏もいる。無一郎のことを思い出してしまったのは、古びた温泉旅館に来ているからだろうか。脱衣所で着替えていると、スマートフォンにメッセージの受信を告げるポップアップが浮かび上がった。通知によれば、彼はもう大浴場前の待ち合わせ場所にいるらしい。

「やば……」

私は急いで浴衣を着ると女湯を出た。スマートフォンを弄って待っていた彼と合流し、自分達の部屋へと向かう。後は恋人達の時間である。事を終えて天井を見上げた時、私は浴衣を左前に着てしまったことに思い当たったが、今は眠気に抗えず目を閉じた。


次に目が覚めた時、まず目に入ったのは知らない人間の顔だった。私がどうにもできずに目を瞬いていると、その人は「あ、起きたみたいですね」と言って体を上げた。その人に顔を覗き込まれている形だった私は、そこでようやく周りの風景を目にした。私が現在横たわっていた場所、その周囲の風景はどこまでも続く暗闇だったのだ。

「何これ、夢……?」

思わず口に出すと、斜め上から声が降ってくる。

「ある意味では夢なのかもしれません」

かもしれない、とは一体どういうことなのだろうか。私はまだ寝ぼけているのか。自分の頬を引っ張るという古典的な行為をしてみるが、頬には痛みが残るばかりである。

「あの、ここは一体どこなんでしょう?」

尋ねるが早いとばかりにその人物を見上げれば、彼女は平然と告げた。

「ここは、死後の世界です」

夢ならば早く覚めてくれと、どこかの歌詞のようなことをこんなにも強く思ったのはこれが初めてだろう。