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課されたレポートのテーマを読み直し、私は小さくため息を吐いた。自己肯定と他己肯定が及ぼす影響について。平たく言えば、自分で自分を愛することと他人から愛されることについて論ぜよということだ。私の憧れでもあった今の大学に入りたいがために一番簡単そうな心理学部を選んでしまったが、こんな謎かけのようなレポートを延々と書くはめになるならば他の学部に入ればよかった。幼少期から虐待されていたわけでもあるまいし、自己肯定や他己肯定についてきちんと考えたことなどない。この調子ではレポートは書けなさそうだ。どうせ朝まで寝てしまうのだろうと思いながら、私は仮眠をとることにした。


「……おい、おい、聞こえるか?」

次に意識が浮上した時、私は眩しい光に照らされて何やら冷たいものに体を浸していた。そのまま寝すぎて体が冷えたのだろうか。だとしても、私の自室に人などいるはずがないのだけど。目を開けてみると、そこに広がっていたのは大海原だった。

「何、これ……」
「そう言いたいのはおれの方だ。この偉大なる航路でずっと寝たまま浮かんでるって、お前魚人族か何かか?」

どうやら私は海に浮かんでおり、海をボードのようなもので渡っていたらしいこのお兄さんに発見されたようだった。ここはサーフィン場なのかと思ったが見渡す限り浜のようなものはないし、水平線まで海が続いている。するとこのお兄さんが何故ボード一枚で海に浮かんでいるのかも謎なのだが、それより私はお兄さんが言った言葉の意味が分からなかった。偉大なる航路? 魚人族? 何のことだろう。

「あの、一体何を言っているんですか?」
「だから偉大なる航路で浮かんでて無事だなんて魚人族なのかって。お前ここで何してるんだ?」

やはりお兄さんが何を言っているのかは分からない。何をしているのかと聞かれれば、私は一体ここで何をしているのだろう。

「分かりません……」

そう言う私に呆れたかのようにお兄さんは頭をガシガシと描いた。黒髪が陽に当たって綺麗だ。

「だからこの大海賊時代に、偉大なる航路のど真ん中で寝てて何で平気なのかって聞いてんだよ!」
「か、海賊?」

聞きなれない言葉に私は目を丸くする。しかしお兄さんは当然のように言った。

「そうだ。この海を渡ってんのは海賊かそれを捕まえようとしてる海軍だよ。お前そんなことも知らねェのか?」

私は呆気に取られて何も言葉が出なかった。ただレポートが面倒で、少し仮眠を取ろうと思っただけなのに。私は全く知らない世界の海へ来てしまったらしい。

「わ、私……この世界なんて知りません」
「何だそりゃ。新世界ジョークか?」

小馬鹿にしていたお兄さんだったが、ポケットからスマートフォンを取り出すと目を丸くして見入った。

「私は海賊も戦争もない平和な世界の大学生なんです……」
「この世界の人間じゃねェことは確かみてェだな」

大海原に二人きり、互いに俯きながら途方に暮れた。いや、正確には途方に暮れているのは私だけなのだろうが、お兄さんも驚いているのは確かだろう。しばらくの沈黙の後、お兄さんは情けをかけるように言った。

「あー……とりあえず、おれと一緒に来るか? いつまでも海にいても仕方ねェだろ」
「是非……お願いします……!」

こうして、藁にも縋る思いで(と言ったらお兄さんに失礼だが)お兄さんと共に行くことを決めたのだった。