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翌日俺と名前さんが集まったのは、空き教室だった。名前さんは何も考えていないだろうが、俺には考えがある。名前さんのことを好きだと自覚した今、俺は名前さんのことを異性として見ている。教室のドアをぴたりと閉めて適当な席に座ると、名前さんは弁当を広げた。

「今日は余裕あったから弁当やわ。治君はまた弁当とパン?」

そう言ってこちらを振り向いた名前さんは、俺が至近距離かつ真剣な表情で名前さんを見ていたことに「近っ!」と言って驚いた。

「何やねん、一体何考えとるんや」

名前さんは慌てたように距離を取る。そろそろ、今日俺が中庭ではなく空き教室を指定した意味が分かるのではないだろうか。

「キスしようと思て」
「キスて、何でそんな」

一応俺達は付き合っているのだけど、キス一つで何故こんな反応をされるのか。それはもう省略する。問題は、目の前の名前さんが俺とキスをしたがらないということだ。

「俺は今まで名前さんのこと好きやないと思ってたからせえへんかった。でもこの間好きや思ったから、したい」
「でも私の気持ちはわからんやんか……!」
「ちょっと前に手だして来おへん言ってたのは自分やん」

そう言うと名前さんは反論の言葉を失ったかのように押し黙った。俺は経験がないのかと、まるでいつでもしてきていいと言うかのように言っていたのは名前さんではないか。なのにどうして今名前さんは動揺しているような表情をするのだろう。この間に名前さんに一体何の変化があったのだろう。

「ツムと色々してたんやろ?」
「それは好きやったからで……」
「『好きやった』って、過去形なんやな」

そう言ってやると、名前さんは驚いたように息を呑んだ。自分でも気付いていなかったのだろう。俺も同じだから気持ちはよく分かる。俺は名前さんから離れると、新しいパンの袋を静かに開けた。

「ま、今回は勘弁したるわ。また今度名前さんの気持ちの整理がついたら――」
「するわ、しよ」

今度は俺が驚いて名前さんを見る番だった。もう名前さんは俺が初めて見たようなツムを好きで仕方ないという表情はしていなくて、緊張と、期待を孕んだ顔に見える。

「どういう心境の変化や」
「別に、治君とキスしたってもええかなと思っただけや」
「ツムから俺に乗り換えるって、女子にえらい叩かれるぞ」
「覚悟の上や。これは誓いのキスや」

暗に本当に俺のことを好きになっているとは否定せず、名前さんは俺に体を寄せた。俺は名前さんの後頭部にそっと手を回した後、優しく唇を触れ合わせた。


その日家に帰ると、自室のドアを閉めた瞬間ツムが鞄を床に叩きつけた。

「人の名前にようやってくれとるな……!」
「見てたんか、気持ち悪」
「見とらんくても最近距離近いのはわかるわ!」

そう叫ぶ侑は真剣で、ここ最近では一番に怒っているのがわかった。その姿を冷静に見ながら、名前さんを盗られてここまで怒るなんて名前さんは結構好かれていたのだ、と頭の奥で考える。あの頃の名前さんに教えたら喜びそうだ。

「名前さんはツムのもんなんか?」
「今はお前のもんかもしれへんけどなぁ、あいつは元々俺が好きや!」

凄い自信だ。ツムの元々の性格に、あれだけ好意をあからさまにする名前さんがさらに火をつけてしまったのだろう。

「ツムは自分が好きな名前さんが好きだったんちゃう? 俺のこと好きな名前さんにはもう用ないやろ」
「だからまだ名前は俺が好きや言うてんのや!」

ツムに言われて、今日名前さんから俺が好きらしい雰囲気は感じ取ったが俺が好きだと明言はしていないことに気が付いた。俺がどれだけ今日の出来事を説明しようとツムは納得しないだろう。

「じゃあ、名前さんが俺を好きや言うたらツムは諦めるんやな?」
俺が言うと、ツムは覚悟したような表情になった。


「侑、今日一人なん?」
「あー、何かそんな気分」

校庭のそばのベンチでパンを齧りながら、通りかかったクラスメイトに俺はそう答えた。普段は適当に仲の良い男友達で集まって食べているが、今日は一人で食べたい気分だったのだ。俺は渡り廊下の脇にある自動販売機を見た。サムと名前はあの場所から始まったらしい。別に双子の兄弟と俺をつきまとっていた女の馴れ初めなど聞きたくないのだが、噂というのはどうも耳に入る。名前がもうサムのものだと思うと変な気分だ。あれだけ「好き」を露わにして、犬みたいに俺の周りを走り回っていた名前が。

「あー……」

俺は二回目のだらしない声を出す。この見た目のおかげで、女には困っていない。部活でも一軍に選ばれている。勉強もまあ、及第点ではある。だけどまさか、こんな所で失敗するなんて思ってもみなかった。名前は俺の絶対安全圏だと思っていたのに、よくも裏をかかされたものだ。これについては、名前を彼女にするでもなく宙ぶらりんにしていた俺が悪い。とまあサムならそう言うだろう。甘いクリームの味を口いっぱいに感じながら、今頃サム達は今中庭のベンチにいるのだろうなと思った。ただでさえ俺達は目立つのだから、女の子と二人で昼飯を食べようものならすぐ噂になる。サムもそれを分かっていて隠れるような真似をしなかったのだろう。その頃から俺はおちょくられていたのだと思うと、ちょっと腹立たしい。でも、今回は俺の今までの行動が決定打となって負けたから、結局自分で招いた成果なのだ。

俺はベンチにもたれて空を見上げた。この梅雨時には珍しい快晴で、俺の心の濁りがより際立つようだ。こんなに名前のことを思うなど、考えてもいなかった。日光に照らされて、俺は目を閉じる。サムと出会う前の名前を思い出しながら、俺もあんな風に真っ直ぐに、馬鹿みたいに、恋をしてみようと思った。今の所サムの前で名前は照れてばかりみたいだから、名前のあんな馬鹿みたいな顔を知っているのは俺だけだ。そういう意味では俺が勝っていると言えなくもないのだから、サムもあまり調子に乗らないでほしい。俺はパンのごみをポケットに突っ込むと、ゆっくりと立ち上がった。