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付き合っている男女がすることは色々ある。キスとか、セックスとか。ラインもろくにしない俺と名前さんはそのどれもをしていなかった。好き同士で付き合ったカップルではないのだから、当たり前かもしれない。名前さんも俺とキスするくらいならツムとしたいと思っているはずだ。そう思っていたから、名前さんと二人で帰っていた時名前さんが唐突に始めた話に俺は驚いた。

「治君って、キスとか経験ないん?」
「あるけど」

俺は面食らいながら言う。自分で言うのも何だが、俺はモテる方だ。ツムを追いかけていた名前さんなら分かるのではないだろうか。俺よりも恋愛経験がずっと少なそうに見える名前さんからそう言われたことに、俺はちょっと馬鹿にされているような気分になった。俺は多分、名前さんがしていないセックスも経験あるけど。

「その割には何も手出して来おへんな。私、一応侑といろいろやったで」

名前さんは空を見上げながら言う。今日の空はどんよりとした鉛色で、何も面白いものはないというのに。焦っている頭の奥で、今日は折りたたみ傘を持ってきていただろうかなんてどうでもいいことを考えていた。

「それは、アレやろ」
「アレって何やねん」

そう言いつつも、名前さんは深くを追求しない。それは俺達が好き同士で付き合ったわけではないからというこれ以上ない答えが目の前にあるからだった。別に手を出してもいいのだが、俺は名前さんに恋人らしいことをしていない。付き合って早数か月、俺は名前さんと触れ合うことを避けていたのだ。

今になって初めて何故名前さんに手を出さないのかと考えてみた。俺はツムほどではないが、人間性に歪みがある。好きではない女を抱くことなどできると思う。性欲は盛んな年頃だ。では、何故。

名前さんと同じように空を見上げて、俺は一つの答えに辿り着いた。俺は、ツムと同じになりたくないのだ。名前さんが好きなわけではないのに名前さんに手を出したらツムと同じだ。もっとも、ツムは名前さんに好かれ、俺は名前さんから別に好かれているわけではないという違いはあるけれども。明確に答えが出たことで自分の中の靄が消えた。俺は、名前さんが好きではないから手を出さなかったのだ。

駅に着き、反対側のホームに消える名前さんの後ろ姿を見ながら思う。俺は本当に、名前さんを好きではないのだろうか?


「なあ角名、好きでもない女と付き合う理由て何やと思う?」

角名は特にそれが俺と名前さんのことなのかと探ることはなく、手を止めて考えた。

「顔が可愛いとか、胸が大きいとかじゃないの」
「……せやんな」

俺は弁当の中の卵焼きを箸で掴みながら言う。やはり、そうなのだろうか。一般的にそういうメリットがなければ好きでもない女と付き合おうとは思わない。だが名前さんは特段美人というわけでもないし、清い付き合いをしている通り体が目当てというわけでもない。だとすると、俺は何で名前さんと付き合おうと思ったのか。しかも、俺の方からわざわざ持ち掛けるような真似までして。そこまで大きな悩みではないものの、その謎は俺の中で渦巻き続ける。原因が解明したのは、名前さんと中庭でお昼を食べていた時のことだった。

「あ、侑からラインや」

一応彼氏の前だというのに、名前さんは堂々とスマートフォンを開いてキーパッドに指を走らせる。嫉妬をしているわけではないが、なんというかこう、名前さんは遠慮がない。

「そんなに気になる?」
「うん、侑からのラインにはすぐ返信するって決めとんねん、私」

そう語る横顔はいつか廊下で友達と侑にいいように使われていることを嬉しそうに語っていた横顔と重なった。ああ、名前さんは本当にツムのことが好きなのだなと。その瞬間、俺の中で何かが弾けた。恋愛は面倒くさいと思っていた俺の前に現れた、全身全霊で恋をする名前さん。その姿に憧れのようなものを抱き、好きだと、その対象に俺を入れてほしいと、思ったのだ。

「……好きや」

唐突に言った俺を、名前さんはスマートフォンから顔を上げて見た。

「誰が?」
「いや名前さんやろ」

そもそもここには名前さんしかいないし、一応名前さんは俺の彼女なのだ。名前さんはぽかんと口を開けた後、両手で頬を抑えた。

「嘘やん、そんなのいきなり言われても困るわ」
「まあ困らせるやろなと思ったけど、俺もいきなり感じてん」
「……嬉しい」

名前さんが言葉通り嬉しそうな顔をするものだから、俺は少しぎょっとしてしまった。俺はツムではない。間違えてはいないだろうが、ツムと同じ顔から言われた嬉しさみたいなものだろうか。それとも、本当に俺に何かしらの情が、あるのだろうか。

自覚をした今になれば名前さんのことを意識しまくりで、自分がこんなにも名前さんを好きだったのだということに驚かされる。二人とも何も言わない気恥ずかしい沈黙が俺らの間に降りた。とりあえず何か喋りたくて、俺は初めて明日も一緒に昼飯を食べる約束をした。