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 俺に水泳を楽しいと教えてくれた奴がいた。そいつは長年一緒に泳いできた真琴とも違う。見たことのない景色を見せてくれた凛とも違う。彼ら二人とは違う色で、包み込むように柔らかく、俺の引き出しに新たな感情を残していった。勝つことではない嬉しさ。俺の手で、そいつの人生に水泳という楽しみを与えられたのだという達成感のようなきらめきを、俺は齢九にして知ったのだった。


 輝かしいのは過去の話で、今の俺は至ってつまらない男になった。何かに生きがいを見出すでもなく、日々淡々と生活を送る。周りの奴は俺を退屈な奴だと思っているだろう。それでいい。俺の人生はここから、平坦な道を歩いていくのだから。

 春を思わせる風に身を震わせつつ、校舎から一歩踏み出した。まだ殆どの生徒は部活をしていて、帰路についているのは俺一人だ。と言っても、通学路は短いのでいいのだが。

 今更一人で下校することを笑われることへの危惧などない。俺は家の方向へ歩き出し、そして足を止めた。クラスメイトに「大人しい性格だよね」と言われること四年。鯖でも親の帰宅でも揺らがない俺の瞳が、動揺に震えた。あるいはそれは、感動だったか。

「ナマエ」

 名前を呼んでしまった後で、そこからどうするかを考えていなかったことに気付いた。いくら会うのが久しぶりだといえど、ナマエは凛のように喧嘩別れしたわけではないのだ。もっと普通にしたらいいのに、俺は普通が何なのかわからなかった。

「遙」

 ナマエも驚いたように、俺を見ていた。俺達は暫くの間じっと立ち尽くしていた。何故俺もナマエも、再会を気まずいと思っているのだろう、と考えながら。それは俺に後ろめたいことがあるからなのだけど、そうしたらナマエにも後ろめたいことがあることになる。まあ、あまり指摘されたくはないだろう。俺が歩き出すと、ナマエも歩き出した。


「今は生徒会やってるんだよね」

 ナマエはぽつりと自分のことを語り始めた。隣を歩く俺は、間が持ったことに安堵しつつ話を聞く。視線を遠くの海へ彷徨わせながら。今日はナマエの高校と岩鳶で共同の事業をするにあたり、訪れたのだという。

 ナマエは俺のスイミングスクールでの友達だった。学校で知り合ったナマエを、スイミングスクールに誘ったのはこの俺だ。子供というのは喜ばされることばかりで喜ばすことに慣れていなくて、当時の俺はそれを誇りに思っていた。ナマエが水泳を楽しいと言うたびに、俺の心の蕾のようなものが広がっていった。ナマエとは中学から別れたが、スクールを卒業した後も水泳を続けていたはずだ。

「水泳、やめたのか」

 言ってから、配慮に欠けた言葉だと気付いた。自分が水泳を辞めるきっかけを思い出してみたところで、それは触れられたくないことに違いないのに。案の定ナマエは、少しむくれたような顔をしていた。

「遙だって泳いでないくせに」

 俺は一瞬言葉に詰まる。真琴か、凛か。誰かナマエに近い人が、俺のことを伝えていたのか。部活をせずに下校している姿を見たら察することかもしれない。でも、今日がオフだと思うことだってあるはずだ。ナマエはいつの間に俺のことを知っていたのだろう。

「お前が辞めるのは想像できなかった」

 だって、あんなに楽しそうに泳いでいたから。俺によって、水の気持ちよさを知ったはずだから。

「私にだって色々あるの」

 ナマエが不機嫌そうに言うので、俺も応戦した。

「俺にだって色々ある」

 ナマエの身に起きたことは、部活動によくあるような小さな諍い――少なくとも、俺と凛の間に起きたことよりは小さなことだろうと、俺はたかをくくっていたのだ。

 二人の家の分かれ道になって、ナマエは別の方へと歩き出した。制服を膨らませる体のシルエットが、彼女は成長したのだと示していた。俺はその姿を暫く見てから、自宅の方へ歩き出した。