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「私達、本当は未来で別れてるんでしょ」

そう言った時、秀一さんの表情筋が一瞬動きを止めた。だがすぐ元通りになって、秀一さんの顔からは何も読み取れなくなった。秀一さんは否定も肯定もしなかった。それが答えだと思った。私が立ち上がると、腰に回されていた腕はいとも簡単に解けた。私が部屋へ入ろうとした時になって、赤井さんはようやく口を開いた。

「君の言った未来が間違っているかどうかは、いつか君が知ることになる。だからそれまでどうか……俺と付き合っていてくれないか」

私は返事をしないまま扉を閉めた。次にこの扉を開けた時はもう秀一さんはいないのだろうと感じていた。それでも何か言う気にはなれなかった。私はその日、深い眠りに就いた。


翌朝目覚めると、やはり秀一さんはいなかった。少しの心配が心を掠めるが、秀一さんのことだからきっと上手くやるだろう。適当に部屋の一つでも借りて暮らしているはずだ。私はキッチンに立つと、久しぶりに自分の手で料理をした。秀一さんの作ってくれた料理の数々が記憶に新しい中で、自作の料理は酷く粗雑な気がした。

私はあれから、赤井さんとも連絡を取らなかった。「この間は乱暴をしてすまなかった。今度会えないか」そんなメッセージが来ていたが、私は返信していない。このまま自然消滅でもすることだろう。赤井さんと付き合っていてくれという秀一さんの言葉には背くことになるけれど、そのくらいは許容範囲内のはずだ。秀一さんも、私と未来で付き合っているなどと嘘をついていたのだから。

私は現在の赤井さんと会えば会うほど、赤井さんが秀一さんのようになるとは思えなかった。赤井さんならば過去にやってきてもわざわざ自分の彼女を可愛がるような真似はしないだろう。もっと有益なことに時間を使うはずだ。未来の赤井さんがわざわざ私の所に来て私を可愛がる理由、それは未来で私と別れているからに思えてならなかった。面倒臭くなって別れはしたが、いざいなくなるとそれはそれで物足りなくなった。だからまだ私と赤井さんが付き合っている過去の中で、秀一さんは私との日々をもう一度送ることにした。私の頭が導き出した推理はそんなところだ。秀一さんに全てを話したわけではなかったけれど、未来で別れているのが本当ならその理由も遠からず合っているだろう。私は、秀一さんがいた証拠を消すように部屋の片付けを始めた。

前に自分で買ってきたものを、一つ一つゴミ箱の中に入れてゆく。髭剃り、下着、衣服。手にしてみれば、秀一さんは少ない物の範囲内で生活していたことがわかった。私が適当に見繕った量産品の服を着て、こんな安アパートに暮らすなど秀一さんにとって初めての経験だっただろう。それでも毎日幸せそうにしていた秀一さんの横顔を、私はありありと思い出せる。

自分から切り出した別れの感傷に浸るのはズルだと、秀一さんは言うだろうか。手の動きが遅くなったのを感じつつ順番に秀一さんのものを片付けていると、不意にその手が止まる。秀一さんの洋服箪笥から出てきた腕時計は、彼のものだったのだ。

私は腕時計を手に取ってありありと眺めた。これが煙草やガムであれば気軽に捨てられただろうが、腕時計ではそうもいかない。これは届けに行かなければならないだろう。私は腕時計をそっと抱えながら、彼、赤井さんのことを想った。きっとこの腕時計は最後に乱暴にされた時に外れてしまったのだ。それが私の服に引っ掛かり、洗濯の時に秀一さんが気付いて箪笥にしまっておいたのだろう。ほんの一度だけ、彼のマンションのフロントにでも預けておけばいいのだからと言い聞かせて、私は赤井さんの元へ行く決意をした。