満月の夜

 満月の日は好きだ。いつもは不完全な月が、その日は元気いっぱいに姿を見せて私を魅了してくれる。だけどどうしたって手が届かない。いっそ海に落っこちてしまえばとりにいけるのに。めったに見せない珍しい形を一方的に見せつけて暁に消えていく。そんなはかなさもそれの良い点だった。そういうとき、私は夜こっそり家から抜け出して海まで走る。海辺のほうが邪魔な建物がなく、月の姿を拝めやすいからだ。何をするわけでもなく、ただ黙ってその姿にうっとりすることが私の習慣だった。

「また家出少女のお出ましか。夜は危ないって言っているのが分からないのか」

 砂を巻く音につられて、呆れたような声が聞こえて顔を向ける。星竜馬は満月の夜いつもここにきて私を叱った。いつからかはわからない、ずっとずっと前のこと。満月は自分とともにボロボロの男性を海まで運んできた。傷ついた姿に驚き、病院にいきたくない、近寄るなと言われたのを無視して包帯と消毒液で何とか看病して…次の日には消えていた。もう会うことはないのかと思っていたがそれからこの毎夜、彼はどこからともなく現れるようになった。

「だって、満月好きだし」
「家からでも見れるだろ。何もここじゃなくたって」

 彼は何もわかっていない。わかっているつもりでも敢えて言ってくる。ここじゃなきゃ、だめなのだ。満月の真ん丸な形をばっちりと逃さないために、私はここにいる。波に飲み込まれて最後は地平線に落ちていく切なさが、良いのではないか。星君はため息をついて私と同じ空を見た。

「…月はいいよな」

 しみじみと、本当にしみじみと彼は漏らす。彼は満月がとりわけ好きなわけではなかった。月が日にちが経つごとにその形を滞りなく変えて、最終的には元に戻る、そんな何でもないことが彼には羨ましいらしい。地上で私たちがどんな風に生活しているのだってお構いなしに、自分を変えることなく平和に月は姿を永遠に変え続ける。満月はそのことを自分に見せつけてくる、と苦々しく呟く彼に毎回尋ねる。

「嫌いなら、見なければいいのに」
「…何でだろうな。どうしても見ちまうんだよ」

 しかし、彼は満月が嫌いなわけでもないようだった。そうでないならば羨まし気に空を見るはずはないのだから。物欲しそうに、だけどどこか諦めたような視線。彼は月を通して何を見ているのだろう。小さいけれど、大きな背中に、大きな瞳。大人びた立ち振る舞いをする彼はともすると本当に大人なのかもしれない。子供の私が必死にかかとをあげて、手を伸ばしても届かない。

「あとどれぐらい、ここにいるの」
「…数日だな。その後は外の街に出る」

 じゃあ、彼は今日で本当に消えてしまうのか。何かに追われている彼は疲れ切っていた。一時も気を抜けない状況の中に身を投じたのが原因だろう。ここに滞在していたのは、疲れた傷を癒すため。すでに元通りの彼にこの街にとどまる理由はなかった。

「…ねえ、星君」

 いつだってそうだった。彼はそもそもこの場所にいないのだ。心はいつも違うところに置いてあった。だから私がいくら話しかけたところで、説得したところですべて無駄に終わるのが関の山だ。彼は達観した人だった。同時に自分に厳しい人でもあった。どうして逃げないのか。どうしてたどり着いた安息の地にとどまろうとしないのか。彼は翼を広げて鳥のように飛び去ってしまうのだろう。月の満ち欠けとともにやってきた迷い鳥は、本当に迷いなどあったかのように颯爽と行ってしまう。いかないで、なんて。そんなことを言う資格は私にはないのだから。

「…元気でね」
「ああ。名前もな」

 小さくなっていく。足音は遠ざかっていく。ああ、満月が海に沈んでいく。私は溺れているっていうのに助けてくれないのか。無情な、悲しい人なんだな、君は。私は元気な振りをして手をふる。ちゃんと笑えている自身はなかった。 一度だけ、星君は立ち止まってこちらを向いた。今まで拒絶したきりはっきり目を合わせてくれたことはなかったのに。驚いて息が詰まる私に、星君は微かに笑った。

「…ありがとな。ここに運んでくるなんて、満月も意外と悪くないもんだ」

 満月と一緒に落っこちてほしい、なんて、私が思ったことを知ったら星君は怒るだろうか。 その願いもむなしく、月は彼とともに地上から離れていって……また姿を見せることはなかった。

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