切れない蜘蛛の糸

 あなたの命は余命数か月ともたないでしょう。どこか他人事のような予言が静かな一室に響き渡った。それが崩壊の始まりだった。私の終わりの始まりだった。泣き崩れる母。こぶしを壁に打ち付ける父。どうしてこの子が、どうして__ 理由を知らない者たちが悲痛のレクイエムを奏でる。
 突然の話だった。普通に仕事へ行き、普通に帰り、不調を感じて医者に診せに行った。それだけのことのはずだった。それでちょっとの異常が重大な事態を引き起こすとは思いもしなかった。まさか私が末期の癌だったなんて。

 皆から同情を寄せられる。可哀そうだね、なんて。私はその言葉が世界で最も嫌いな言葉になっていった。可哀そうなんて、自分たちにはそんな出来事起こりっこないから、他人の不幸話を聞いて見下しているだけだろう。事実そうだった。世間は私のような人間に「可哀そう」とだけ言葉を吐いて、手を差し伸べることもなく片付けて終えてしまう。
 このまま死んだらどうなる?きっと何も変わらないだろう。名もない人間が名もない社会の中ぽつんと一人で死ぬ。家族や親戚は悲しむ。だけどそれは一時のことだ。時間がたつとともに人は悲しみの記憶を忘れようとする。世間は私の存在すら消し去っていく。やがて、私は誰からも忘れられて本当の死を迎えるのだ。 そんな卑屈な考えを持っていると知れば、きっと目の前の彼は顔をゆがめるのだろうな。邪な考えを感じ取ったのか、彼がこちらを覗き込む。真っ白な個室に緑色が際立っている。

「眠れないっすか?」
「ん、ちょっとね」

 天海蘭太郎。私の恋人。かれこれもう数年も長く付き合っている。付き合おうと言い出したのは彼の方だった。こんな私のどこが良いのかわからなかったし、顔が良い彼は誰からもアプローチを受けていた。そんな状況の中で、まっすぐに彼は私に想いを伝えてくれた。優しくて真摯な人という印象は出会ったころから変わらない。

「…ねえ、蘭太郎」
「何っすか?」
「…いいんだよ。無理していなくても」

 だからこそ、怖い。つらかった。きっと時が過ぎれば彼も私のことを忘れてしまうのだと何度も考えてしまう。死んだ後に新しい女の人と、新しい人生を歩む彼の姿。喜ばしい。…嘘、うそだ。ずっとそばにいてほしい。たとえ私が死んでもなんて思わないけど、もしも一緒にいることが出来たならどんなに良かったんだろう。 置いてか行かれる前に、自分からつきはなす。そのほうが楽で、また残酷なことだった。無言になる彼に続ける。

「ほら、私のためにずっとついていてくれてるよね?それについては本当に、感謝している…けど、蘭太郎ももう疲れたでしょ?ほら、蘭太郎のご両親も言ってたじゃん。区切りをつけたほうが良いって」
「……」
「だから、ほら。……もう終わりにしよう。そのほうが身のためだよ」

 運命という名の時が早鐘を打つ。たった一言をいうだけでどれだけの勇気がいるんだったか、口に出した瞬間に忘れていた。彼の瞳に私の姿が映る。みすぼらしい、髪の毛の抜けた貧相な顔。闘病のせいで何キロも落ちてどこもかしこも骨ばっている。彼もそんな私を見るのは辛いだろうから、だからこれでおしまいだ。もう、おしまい。

「__いい」
「え?」
「もういい。わかったっす」

 そう言って彼は立ち上がる。ああ、わかってくれたのか。自分から告げたというのに彼の後ろ姿を拝むことになることに胸が痛くなる。でも、これでいい。これでいい__はずだから、さっさと出て行ってよ。…こっちに、来ないで。

「名前が誤解してるってこと、十分に伝わったから」
「な、んで__」

 緑の髪が頬を掠める。唇に触れた感触にただただ茫然とするしかない。同じように体を横たえて、彼は私を覆った。気を遣わなくていいから、そんな同情はいらないって思ったのに、どうして。

「名前。俺は渋々君のそばにいるとか、そんなことこれっぽっちも考えたことはないっす。…名前には辛い思いをたくさんさせて、たくさん傷ついて、…それを慰めることも出来なくて、彼氏失格といえばそうだけど」

 俺を俺として見てくれる人に出会えた。次はそばにいて君と一緒にいたい。はにかみながら笑って彼は言ったのだ。…まるで出会いをやり直している気がするくらい、笑顔は当時のままだった。こんな幸せじゃない状況で、彼はさもこれ以上良いことがないというくらいに微笑んで私を抱きしめる。

「それでも俺は、ずっと君の隣を歩きたいと思ったんすよ。どんなことが起きようが、俺は名前を選んで、名前は俺を選んだ。その事実は変わらないっす。…それに、この想いも」
「…ら、んたろ」
「寂しいこと、言わないでくださいっすよ。…寂しがり屋を放っておくほど俺は非情にはなれないっす。好きだって言うこととか、楽しいところへ旅行へ行くこととか全然やってないんすから。…だから、お願い」

「俺と、結婚してください」
 
 気づいた時には声は出ず、抑えていた嗚咽が漏れだした。左手の薬指にひんやりと冷たいものが収まる。彼がくれた形なのだと知った時には彼を夢中で抱きしめた。優しくいたわるように背中に熱が回る。…もう、限界だった。

「…っ、らんたろう」
「名前」
「私なんて、もうすぐ死んじゃうのに…ら、蘭太郎を置いていくんだよ?つきあってって言ってくれて、これからだってときに、見捨てて行っちゃうんだよ?」
「そんな時なんてきっと来ないっす。このまま名前は良くなって、奥さんとして家に来てもらうっすから」
「…ばか。らんたろうのばか」
「馬鹿でいけないっすか?」

 全員に見捨てられたと思っていた。これ以上傷つくのが怖かった。籠の中で死にかけている私を、彼だけは見放さずに手に収めてくれた。たとえ本当の時間が迫ってきているとしても、関係ないと私を好きでいてくれた。愛していてくれた。私は、幸せ者だ。

「___待ってる」
「…え?」
「向こうで蘭太郎のこと、待ってるから。だけど約束。絶対私がいないところでも幸せになってから来てね。じゃないと迎えに行ってあげないから」
「…はは。手厳しいっすね」
「手厳しいのがいけない?」
「いや。……ねえ、名前」
「…何?」
「好きっすよ」
「…私も。君に出会えて、本当に良かった」

 きっと空の上からあなただけに切れない蜘蛛の糸をたらしてあげる。そうすれば、いつかはまた会えるはずだから。
…ありがとう。愛してる。

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