09. 忘れなかったこと
医務室から出た二人が向かったのは、忍たま寮とくの一寮の境にある大きな木。根元に腰を下ろす。ここは、初めて孫兵と名前が出会った場所だった。
私には兄がいたの、と名前は言った。
「兄、ですか?」
「そう、どうしようもなく忘れん坊の兄だった」
元々、名前は物覚えが良かった。それこそ一度でも学んだことは忘れなかったし、出会った人は一度で覚えることができた。彼女の兄はというとその逆で、物覚えが人よりも何倍も悪かった。
人間は忘れる生き物だ、というのが彼の持論だった。いつの日か、それなら忘れないこととは何なのかと名前が聞いた時、彼はこう答えた。生きるために必要なこと、忘れたら生きてはいけないことだと。
「その、お兄さんは今どこに?」
「私が8つの時に死んでしまったよ」
「…すみません」
「いいよ、私だってさっきまで忘れていたんだから」
そう言って、名前は目を伏せた。
「私の目の前で兄は死んでいった」
ぽつりとこぼれた言葉に、孫兵は名前の顔を見る。彼女の瞳はどこか遠くを見ていた。
「それがあまりにも衝撃的で、私の記憶は全て飛んでしまった。それからの私は思い出すという行為を忘れてしまった。きっと、兄の死を思い出したくなかったから」
何かを思い出すことによって兄が死んだという事実に気付くのが恐かった。その事実に気付いて心が壊れてしまうのが恐かったから、思い出すという行為を忘れて自分を守ろうとした。その結果、以前の自分が出来上がってしまったのだろう。
でも、と名前は続ける。
「兄が言っていた通り、歩き方だとか言葉の発し方だとか、生きるために必要なことはちゃんと覚えていた。やっぱり人間ってそういう風にできているんだなって思ったの」
懐かしむように目を細めた名前を、孫兵は複雑な表情で見つめる。
彼女にとって兄の存在はとても大きく、とてもではないけれど自分の入る余地がない、だから自分は先輩に振られたのではないか。色々な考えが頭の中でぐるぐる回り始めた時、ふとあることに気付いた。
「先輩、」
「何?」
「それなら、先輩は何故僕のことを覚えていたんですか?」
そういえば、ずっと疑問に思っていたことだった。他の人のことは全く覚えていなかったのに、自分のことはちゃんと覚えてくれていた。これが意味することとは?
名前が孫兵の問いに答える。
「なあに、簡単なことだよ。兄は大層な忘れん坊だったけれど、私のことは忘れなかった。何故だと思う?」
逆に質問され、孫兵は首を傾げた。
「兄は私にこう言ったの。俺はお前がすごく好きだから、お前を忘れたら生きていけないよ、って」
「それって…」
「そう、」
そこで一旦言葉を区切り、名前はにこりと笑った。
「私も君のことが好きだったみたい」
久し振りに見た姿に、三木ヱ門はほっと胸を撫で下ろした。自分の前を歩くその人に声をかける。
「名字、」
名前を呼ばれ、名前はくるりと振り返った。顎に手を当て、少し考える。
「田村、か」
「そうそう、僕は田村だ…って、ええ!?」
自分の名前を当てられたことに三木ヱ門は驚きを隠せない。その様子を見て、名前は思わず笑ってしまった。
「倒れた私を医務室まで運んでくれたって聞いたよ。ありがとう、田村」
「え、あ、ああ。でも、」
「名前先輩!」
何故自分の名前を当てられたのか。そう聞こうとした三木ヱ門の言葉は、向こう側からやって来た孫兵の声に遮られてしまった。
「何やってるんですか。早く行きますよ!」
「悪い。…それじゃあ、これから孫兵と出かけるから、ごめん」
「あっ…、」
申し訳なさそうにそう言う名前の横で、孫兵は三木ヱ門を軽く睨んでいる。何も言えないままでいると、孫兵が名前の手を引いて去って行ってしまった。三木ヱ門は引き留めもせずその場で呆ける。
「あいつら、いつの間に…」
自分はようやく名前を覚えてもらえたのに孫兵は名前呼び。そのことに驚いたのと同時に、何だか悔しかった。…でも、まあ――
「仲直りできたみたいで良かったよ」
三木ヱ門はそう呟くと、ユリコたちの待つ用具倉庫に向かって歩き出した。
120409
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