見えざる思慕
-欠け落ちた記憶-
「別れて欲しい」
まだ肌寒さも残る4月だったと思う。
内装が綺麗な喫茶店に訪れた時、湯気の立った珈琲カップをテーブルに置きながら、目の前の人はポツリと別れの言葉を呟いた。
「え?」
「すまない」
「どうして?」とその言葉を私が絞り出す前に被せてきた、彼の声に、慌てて口を閉じる。とても真剣で、何かを思い詰めたような、覚悟をしたような声。彼との関係は、そこそこの年月と言えるだろうが、そのような声を聞いたのは初めてだった気がした。
「…何かダメだったかな」
「違う」
「……じゃあ、他に好きな子でもできた?」
「違う」
頑張って彼の理想の女の子を演じてきたとは胸を張って言えないが、そこまで悪い印象を与えていなかったように感じた。が、それも違って、なにか気を悪くした場面があったのだろうか。
この時の私は、グルグルと悪い方向へと自ら行っていたような思考だった。
やっとの思いで口から出た言葉も、疑問系ではなくなっていた。何かしてしまった、彼の嫌がることをしてしまったんだ、と悪思考のループに嵌っていたんだと思う。
しかし、それを断ち切るかのように、言葉を紡いだのは、他でもない。別れ話を切り出した目の前の男であった。ハッキリとした口調に、余計に分からなくなる。どうして、という顔をしていたはずだ。彼はもう一度、「すまない」と言い、頭を下げた。
その言葉に、急激に身体が冷えるのを感じた。もう終わりだと、最後の宣告をされているように感じたのだと思う。
「…そっか。」
思考がぼんやりとして、世界がゆがみ始めた。
「頭を上げてよ」
「すまない」
同じ言葉をこぼす彼の顔は、覆っていた涙で見えなかったが、やはりどこか硬かった。
どうしてだとか、嫌だだとか、本当はもっと言いたかったのに、いざ口を開くと、違う言葉がポロポロと、流れなかった涙に代わって、溢れ出る。本当は、違うのに。
「…今まで、ありがとう。幸せになってね、──」
店内の陽気な音楽と共に、最後の言葉が彼に届いたと信じたい。
テーブルにある、二つの珈琲が入ったカップからは、先程と比べればマシになったが、まだ湯気が立っていた。
あれ。そういえば、名前は何だっけ。