何も悪いことはないよ
お腹を押さえて苦しそうにしている小林先生をダメージの少なかった文豪達に、補修室まで運んでもらって数分、補修は上手くいって、恐らくあと10分もすれば回復するだろうといった感じだ。
普段は落ち着いて見える小林先生は、耗弱や喪失の状態になると取り乱す。彼の死因を思えば無理もない。普段だって、人一倍警戒心が強く、人の気配にも敏感なのは確かだ。
見ているこちらも辛いので、かなり気にしているつもりではあるが、本人がギリギリまで平気な顔をしているのと、精神状態が不安定ということもあって、どうしても弱ってしまうことがある。
初めて小林先生が耗弱状態になった時、あまりに苦しそうにしていたから、大丈夫ですかと手を伸ばしたら、すごい勢いで振り払われた。触るなと叫ぶように言う彼は手負いの獣のようだった。しっかり様子を見ていれば、いつもより距離を取り、警戒するようにあたりを見回していた小林先生に不用意に近付いてはいけないことくらいわかったはずなのに、私は私であの時動揺していて、気付けなかった。
でも、別に手を振り払われたことはいい。何より辛かったのは、回復した後に平謝りされたことだ。それなら、最初からそっとしておいた方がいいのだという結論に達した。人がいない方が小林先生も気が休まるだろう。そっと補修室を後にしようとした時、カーテンの奥から声がした。

「……待ってくれ」
「小林先生?」

寝言だろうか。いや、それにしてははっきりとしていた。

「小林先生?開けますよ?」

寝台の周囲を囲む白いカーテンに手を伸ばして中をのぞくと、体を起こした小林先生がこちらを見つめていた。顔色が悪い。

「ああ……寝ていてください。すぐに治りますから、ね?」

思わず手を伸ばしかけてハッとする。慌ててその手を引っ込めると、小林先生は困った顔をした。

「あの時は悪かった」
「いえ、ほんとに気にしてませんから。こちらこそ申し訳なかったです」

まだ横になろうとしない小林先生が心配になってくる。そもそも、なぜ私を呼び止めたのだろう。

「ここにいてほしい」

ものすごく言いにくそうに、小さく吐き出された言葉に、私は目を見開いた。

「駄目か?」
「いえっ、ここにいます。いますから、ちゃんと横になって、休んでください」

素直に横になってくれた小林先生を見て、ほっとした。とりあえず、寝台の横に置いてある椅子に座っていることにする。

「落ち着かなくないですか?」
「いや、アンタなら……」

前のような、もう誰も信じられない!という感じではないけれど、これはこれで弱っているんだろう。

「……髪、さわってもいいですか」

よくわからないと言いたげな顔をされたが、拒絶はされなかったので、そっと手を伸ばして髪に触れてみた。初めて触れる深い紫色は思ったよりも柔らかい。ゆっくりと指で髪を梳くと、その感覚が嫌ではなかったのか、小林先生は目を閉じた。気を許してくれているようで嬉しい。

「小林先生」

そろそろ回復した頃だろうかと声をかけてみるが、反応は返ってこない。人前で眠るなんて、絶対にしなさそうな人なのに、と思うと思わずふふっと笑ってしまう。いつの間にか、受け入れてもらえていた。そのことがとても嬉しい。
今回の潜書で耗弱状態になったのは小林先生だけで、急いで補修しなければならない人は他にいなかった。それなら、もうしばらくはいいだろうかと思う。
以前、中野先生に「多喜二がよく魘されている」と相談を受けたことがあった。今は悪い夢も見ずに眠れているようだから、起こしたくはなかった。ひだまりでまどろむような優しい時間があと少し続きますようにと願いながら、小林先生の髪をもう一度梳いた。

170122
title by icy
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