月が太陽になれない理由
足音がして井伏は顔を上げた。

「あ、井伏先生」
「お疲れさん、今まで仕事だったのか?」

もう深夜といってもいい時間だった。この時間帯に名前と顔を合わせるのは初めてかもしれない。縁側に腰掛けて酒を飲んでいた井伏は杯を置いた。

「あー、仕事は終わったんですが……ちょっと眠れなくて」

名前は肩をすくめてみせると、ここいいですかと尋ね、井伏の隣に座った。昼の賑やかさが嘘のように図書館の敷地内は静かだった。明かりのついている部屋はあるものの、各々が読書や執筆に勤しんでいるのか騒いでいるような声は聞こえてこない。
井伏が酒を杯に酒を注ぐ様子を名前はじっと見つめていた。視線に気付いた井伏は軽い調子で飲むか?と聞いた。遠慮しておきますと返されると思っていたが、意外にも名前は小さく頷いた。
飲みすぎないようにと注意する側の彼女が酒を飲んでいるのを見たことはなかったから、てっきり飲めないものだと思っていた。そもそも、彼女は成人しているのだろうか。

「一応、成人してますよ」

井伏の言いたいことがわかったのか、名前は少し不満そうに言った。しかし、「一応」と付け足すのだから、20歳か21歳かそのくらいだろう。一度飲むかと言ってしまった以上それを取り消すわけにもいかず、井伏は飲もうとしていた杯を差し出した。

「いただきます」

なみなみと注がれた酒を見て名前は少し躊躇ったが、覚悟を決めたかのようにぐいと一気に飲み干した。

「大丈夫か?」

見たところ酒を飲み慣れているとは思えなかった。未成年ではないにしても、酒に弱い女性に飲ませてしまうのはよくないだろう。

「大丈夫です。あまり癖がなくて、思ったより飲みやすい」
「酒が好きで飲むのはいいが、不安を紛らわせたり、嫌なことを忘れたりするために飲むのはあまりよくないぞ」

寝酒もよくないらしいしな……と続ければ、名前は井伏をじっと見つめた。

「井伏先生も、他の先生方もたくさん飲んでるじゃないですか」
「オジサンの忠告は素直に聞いておくもんだぞ」

ひょいと名前の手から杯を取り上げる。

「……で、何があった?」
「何もないです」

井伏は何も言わずに酒を注いでそれを飲む。酔わせたら、名前は弱音を吐くだろうか。隠していることを打ち明けてくれるだろうか。

「先生方はどうしてお酒を飲むんですか?」
「えっ?」
「子供の頃から不思議だったので。どうして大人はみんなお酒を飲むのかなって。成人すれば飲むものだと思っていたけど、私はほとんど飲まないんです」
「楽しいからじゃないか。適量飲んで酔ってる分には楽しいんだ。面倒な酔い方する奴もいるけどな。急に泣き出す奴、説教を始める奴、すぐに寝る奴、普段より饒舌になる奴……色々だ」
「……そういう状態でなら、もっといい関係を築けるのかなと思って」

井伏は手を止めた。それは「この図書館にいる文豪達と」いい関係を築ける、ということだろうか。井伏から見れば、名前は文豪達に信頼されている。何か問題があるとは思えなかった。

「それは好いている相手と、なのか?」

他に思いつくのはそのくらいだった。名前くらいの年齢なら、そういうことにのめり込みやすい年頃だろうとも思った。

「いえ、先生方と」
「俺から見れば、今も充分いい関係だと思うんだが」
「だって、みんな頼ってくれないから。私じゃ頼りないのか、信じてもらえてないのかわからないけど」

ぽつりと口にして俯いた名前を見ながら、井伏は心の中でそんなこと言ったってなぁと呟く。年が年だから、名前のことを娘のように見ている者だって少なくないはずだ。多少子供扱いしてしまうことには目をつぶって欲しいと井伏は思う。信じていないわけではないのだから。

「井伏先生、月と太陽の違いってご存知ですか?」

名前は夜空に浮かぶ月を見上げながら、不意にそう言った。

「違い?」
「全然違うんですよ。太陽は自分で光っているけど、月は太陽の光を反射しているだけなんです。……昔、何かの雑誌に人間は太陽タイプと月タイプに分けられると書いてあって、友達とどっちのタイプだと思う?って話になったことがありました。みんな、私は月タイプだって言うんです。……私が周りを明るくできるような、引っ張っていけるようなタイプだったら、色んなことをもっと上手くできるのかなって、たまに思います」

そこまで話してから名前は肩をすくめ、「なんて、自分でも何言ってるかよくわからなくなっちゃいました」と苦笑した。

「けど、月がなきゃ夜は真っ暗だ」

名前は目をぱちくりさせて井伏を見た。

「太陽も月も両方ないと困るんじゃないか」
「それは……そうかも」
「まあ、若い時は悩むものだ。オジサンにはそれも眩しいけどな」
「先生の言うことは説得力がありますね」
「伊達に年は食ってないからな」

ふふっと笑った名前の顔は明るい笑顔だった。彼女は悩みながら成長していくのだろう。自分のことを知って、変われない部分も受け入れて、そうやって生きていくのだ。
いつか年をとって今日のことを思い出す日が来るかもしれない。そんな時にも、井伏先生はかっこいい大人だったと思い返してもらえるように頑張らないとなと井伏は思う。

「それがオジサンの役目だな」

ぽつりと呟き、杯の酒を飲みほした。月の光のもとで、名前の瞳は輝いていた。

180506
企画サイト「黒猫は迷わない」に提出


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