ゆえに世界は覆らない


「堀先生!今、お時間大丈夫ですか?」

困った顔で声を掛けてきた司書に、堀は笑顔で大丈夫ですよと返す。

「あの、もし迷惑でなければ、買い物をお願いしてもいいでしょうか?」
「はい、僕でよければ。街に行くのも楽しいですし」

堀を含め、今ここにいる文豪達は、司書の力で転生した者達だ。既に死んだ文豪が転生とはいえ、人間のような姿で存在していると公になれば、大騒ぎになる可能性が高いため、そのことはごく限られた人にしか知らされていない。
ただ、生前とはかなり違う姿で転生しているため、見た目では誰だかわからない。それに、図書館に閉じ込めておくのもどうかということで、許可制ではあるが外出も許されていた。

「ありがとうございます、助かります!外出の手続きはしておくので、お願いします」

安心したように笑った司書は必要な物をメモした紙を堀に渡し、もう一度お礼を言ってから堀に背を向けて歩き出した。

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買い物を終えて街を歩く。堀は歩くのが結構好きだった。目的はなくとも、歩いているだけで楽しい。
歩いていると、堀と同い年くらいに見える少女が転んだのが目に入った。持っていた本と紙が道に散らばるが、道を行き交う人々は誰も手を貸そうとしない。
必要以上に街の人と関わるのは避けるように言われているが、落とした物を拾うのを手伝うくらいはいいだろう。堀には少女を無視して通り過ぎるという選択肢はなかった。

「……っ!?」

少女は驚いたように顔を上げ、目の前にしゃがんだ堀を見つめた。信じられないと言いたげな顔に堀は首を傾げた。そんなに驚くようなことだろうか。

「大丈夫ですか?」
「あ、はい。ありがとうございます」

少女は慌てて頭を下げた。長いおさげが揺れる。街を行き交う人の多くは洋服を着ていたが、少女は和服だった。
堀は紙を拾い集める。紙は原稿用紙でそのほとんどは文字で埋まっていた。あらかた拾い終えたところで、何気なく本を見て堀は固まった。

「その本、ご存知ですか?堀辰雄です」

堀が本を凝視していたことに気付いた少女はそう言った。僕が書いた本です、などと言えるわけもなく、堀はどうにか平静を装って頷いた。目の前に堀辰雄本人がいるなんて想像もしていない少女は無邪気にとても好きなんですと付け足した。

「小説を書くんですか?」

このまま本の感想でも言われたら、何かしらボロを出してしまいそうで話をそらす。

「趣味なんです」

少女は恥ずかしそうに呟いて、堀が差し出した原稿用紙を受け取った。

「……なんだか不思議と、初めてお会いした気がしません」
「そう、ですか?」

何か感じ取ったとしても、まさかあなたは堀辰雄ですか?と訊ねてくるとは思えないが、堀はぎくりとした。もう全部拾い終えたのだから、さっさと立ち去ればいいとわかっているのに、なぜか出来なかった。少女から目が離せない。

「お名前、教えていただけますか?……あっ、私は西崎百合と申します」
「ほり……」
「堀さん、ですか?」

丁寧に名乗られて、反射的に堀辰雄ですと言いそうになった。途中でやめたものの、苗字はばっちり聞こえてしまったらしい。今から違うというのは怪しまれそうで、堀はそうですと頷いた。

「ふふっ、堀辰雄と同じ苗字なんですね」

百合は楽しそうに笑ったが、堀はぎこちない笑みを浮かべるのが精一杯だった。

「堀さん、またお会いできますか?」
「えっと……機会があれば」

ふわふわとした笑顔を向けられると、首を横に振ることはできなかった。住所を訊かれたらどうごまかそうかと考えていたが、百合がそれを訊ねることはなかった。

「なんだか、またお会いできる気がするんです。私の勘は当たるんですよ」

百合はそれだけ言うと、風のように軽やかに駆けて行った。微かに知っている匂いがしたような気がしたが、ほんの一瞬だったから気のせいかもしれない。そうでなくても、その匂いがなんだったか堀には思い出せなかった。


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