漠然とした幸せの定義は、もうすっかり


列車に乗り込んだ後、百合は黙って流れて行く景色を見つめていた。こんな場所で私に話しかけていたら、変な目で見られますよと困った顔で言って、それきり黙っていた。堀が心配そうにしているのがわかったのか、一緒に軽井沢に行けるだけで充分ですからと笑ってみせた。

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堀が遠出したいと司書に相談した時、司書はいい顔をしなかった。図書館から離れた場合、存在が不安定になる可能性があるらしい。しかし、どこに行きたいのか訊かれて軽井沢と答えたら、司書は考え込んだ。堀にとって大切な場所だと知っているからだろう。

「他の先生方とも一緒ですか?軽井沢と関わりがある方、多いですよね?」
「いえ、僕だけです」

百合のことは言えず、嘘をついた。中に入れなくてもいいから、昔過ごした家や完成を見届けられなかった書庫を静かに眺めたいと言った。司書はようやく頷いて、相談してみますと答えた。

結局、2日くらいなら問題ないだろうということになったらしい。日時が決まったら、教えてくださいと言われたものの、日時をどう決めればいいのか堀は頭を悩ませた。
百合と待ち合わせをしたことはない。いつ現れるかわからないのだ。しかし、現れてすぐ、さあ軽井沢へというわけにもいかないだろう。
この問題は案外簡単に解決した。いつものように会った百合に何日に会おうと約束すればその日に会うことはできるか訊いてみた。やってみたことがないからやってみようということになり、2日後に約束をすると百合はその時間に現れた。どうなっているのかわからないが、2人には好都合だった。

こうして堀と百合の軽井沢行きは決定した。

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列車とバスでどうにか目的地までたどり着いた。堀が最期まで過ごした追分はその頃とは変わっていた。案内しようにも記憶の中にある場所とは違っていて、困ってしまう。

「わかってはいましたが、随分変わったみたいです」
「でも、堀さんはここで過ごしたんですよね」

百合は気にした様子もなくあたりを見回しては楽しそうにしていた。堀の家も書庫もきちんと残されていた。手に取ることはできないが、自分が集め、並べ方も指示した本を目の前にして、堀は懐かしいなぁと繰り返した。百合は立派な書庫ですねと褒め、やはり楽しそうに眺めていた。

いつの間にか、夕暮れどきだった。歩き回っているうちに時間はあっという間に過ぎてしまった。2人がこんなに長い時間を一緒に過ごすのは初めてだった。

「楽しかったです」
「ほとんど歩いただけですよ?」
「堀さんから色々なお話を聞きました。本当ならどんなに望んでも会えなかったはずの人なのに。……それって、すごく贅沢なことですよ」
「そんな大げさな」

堀は照れたように呟いた。百合の言葉は真っ直ぐだ。

「それに、こうやって遠出して歩き回ること自体、もうできないと思ってましたから」
「病気……長かったんですか?」

10代で死んだということの他には何も聞いていなかった。百合の言い方からして、病はかなり重かったのだろう。

「多分。はっきり思い出せませんけど、心臓が悪かったんです。治らないって言われてました」

堀は最初に会った時に感じた微かな匂いを思い出した。あれは病の匂いだったかもしれない。自分もかつては纏っていたであろう匂い。

「読書だけが楽しみだったんです。その中でも堀さんの書いたものが」

ふわりと笑った百合は立ち上がって空を仰いだ。もうすぐかなと独り言のように呟く。どこからともなく風が立ち、堀が贈った髪飾りを揺らした。

「生前もこの姿になってからも、私は堀さんのおかげで幸せでした」
「僕は何も……」

百合はゆっくりと首を左右に振った。そして、鞄から原稿用紙を取り出して堀に渡す。あの日、堀が拾うのを手伝った原稿用紙だった。

「これ、もらってください。私が消えたら、一緒に消えてしまうかもしれないけど、もし消えるのだとしたら、そうなるべきなんだと思います。消えなかったら、読んでください。ずっと昔に書いたものだし、堀さんに読まれるのは恥ずかしいけど……やっぱり渡しておきます」
「ありがとうございます」

ずっと昔ということは、生前に書いたものなのだろう。そう思いながら、堀はそれを丁寧に受け取った。

「僕も西崎さんとお会いできて、楽しかったです」

百合はひどく嬉しそうに笑った。笑顔のまま涙をこぼした。そしてそのまま、風に攫われるかのように百合の姿は消えた。
ああ、もう会えないのだと堀は思った。

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原稿用紙は堀の手に残った。綺麗だったはずの原稿用紙はかなり傷んでいて、時の流れを感じた。これは百合が生きていた頃のものなのだ。
図書館に戻るまでの列車の中、堀は静かにそれを読んだ。お世辞にも上手いとは言えないものだった。直せと言われればいくつも直す場所がある拙い文章だ。
読み終えて顔を上げる。ぼんやりと窓の外を眺める。でも、これが彼女の全てなのだろうと思った。全てをぶつけた文章なのだ。

原稿用紙を丁寧にしまい、堀はノートを取り出した。今なら何か書けるような気がした。もし、納得のいくものが書けたら、彼女に捧げよう。そう決めて、堀は駅に着くまでずっとノートと向き合っていた。


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