堀が百合にはもう会えないのではと思い始めた頃、百合は突然図書館に現れた。
「私、ずっと黙っていたことがあります」
百合はどこか寂しげな表情で切り出した。きゅっと手を握り締め、微かに震えている。
「もうお気付きかもしれませんが、人間じゃないんです。何年も前に死んだはずなんです。幽霊、なのかもしれません」
司書が全く百合を気にせず、いないように振る舞ったのを思い出す。あれは、本当に見えていなかったのだ。ベンチで百合と話していた時もそうだ。
そう考えれば、初めて会った時に荷物を落とした百合を助ける人が誰もいなかったことも、堀が声をかけたら、ものすごく驚いたことも納得できた。他の人には見えていなかったし、百合自身誰にも見えないと思っていたのだろう。
「最初は、私のことが見える堀さんもそうなんだと思っていました。でも、違いました。堀さんは他の人からも認識されている」
「僕も普通の人間ではありませんよ」
人間と同じように食べたり、眠ったりする。ただ、いくら傷付いても血は出ない。重要なのは、肉体ではなく精神なのだ。肉体はおまけのようなもの。
「僕は堀辰雄なんです。堀辰雄はもう死んでいるので、彼そのものというわけではないんですが、記憶は大体あります」
堀もはっきりとは分かっていない。しかし、何も分からず転生した時も、自然と堀辰雄と名乗っていた。
「やっぱり、そうなんですね」
安心したように、嬉しそうに百合は頷いた。
「堀さんと話す時と、堀辰雄の作品を読んだ時……何となく似た印象を受けたので。でも、姿が違ったので、違うのかなと」
いくら年若い姿だとしても、百合が知っている堀辰雄の姿とは違っていた。もしかしたら、生まれ変わりか何かだろうかと考えたこともあった。
「なんというか……色々特殊なんです」
困った顔を見ると、百合はそれ以上深く尋ねる気にはならなかった。
「ということは、この前お会いしたのは、芥川龍之介先生なんですね。芥川先生に堀先生、まさかお会いできるなんて」
「芥川さんはいいとしても、僕を先生と呼ばれても……。今まで通りの呼び方でお願いします」
「じゃあ、堀さん、私も特殊なんです。まあ、他の幽霊さんにお会いしたことがないので、特殊なのかもわかりませんが」
消えようと思えば消えられるが、現れるのは自分ではできないらしいこと。ふと目を開けるとどこかに立っていること。
物に触れることはできるが、百合の姿は見えないため、物が浮いているように見えてしまうこと。本や原稿用紙など百合自身の持ち物は他の人に見えないこと。
今までのことを思い出すように百合は語った。
「髪飾りは堀さんが買ってくださったから、私の物になって、他の方には見えなくなったみたいですね」
今日もつけている髪飾りを見せながら言う。今までのおかしな行動もこれで説明がつく。
「夜に図書館に来たこともありますか?」
「……はい、堀さんの全集が読みたくて。あの全集は読んでいないんです。私が死んだ後に出たものかもしれません」
「え?全集は一番新しいものでも随分前になると思いますが」
「あ、私……多分、堀さんとそれほど変わらない時代を生きました。堀さんが亡くなった数年後には生まれたはずです。それで確か10代のうちに死んだので」
予想もしていなかった言葉に堀は固まる。何年も前に死んだと言っていたが、それほど前だとは思わなかった。
考えてみれば、あそこまで話が合うのも変な話だ。生きる時代が違えば感じるようなズレもそれほどなかった。司書と話していると、通じない言葉があったり、司書の言葉の意味がわからなかったりするが、それもなかった。
「時間の感覚がなくて、不思議なんですけど、そうみたいなんです」
「あれ、でも、しげじには見えなかった……」
堀はふと気付く。芥川にも見えたのに、中野には見えなかった。堀達と中野に違いがあるようには思えない。百合が中野より早く死んだから見えないのか、他の理由か。
「しげじさん?」
「中野重治です。芥川さんに会った時、司書さんの横にいた眼鏡の……」
「名前は聞き覚えがあるような……うーん、私が生前作品を読み込んでいたから見えるんでしょうか?ただ、私が一方的に知っていただけで、堀さんは知らないわけですよね。不思議ですね」
まあ、不思議なことがたくさんあるのだから、そのくらいではもう驚かない。他の文豪にも会えば、法則がわかるかもしれないが、それを明らかにしたところで意味はないだろう。
それより、堀が気になるのは別のことだった。しかし、訊いてもいいのかわからない。
「あの……言いたくなければ、大丈夫なのですが」
「はい?」
「西崎さんは未練のようなものがあるんですか?」
百合は目をぱちくりさせた。長年幽霊のような形でこの世界にいると聞いたのだから、堀がそう考えるのも無理はない。
「いえ、すぐに思い浮かぶようなことはないです。もっと長く生きたかったとは思いますけど……」
自分でもなぜここにいるのかわからなかった。ここにいたいと望んだ記憶もない。
「でも、多分もうすぐなんです」
「もうすぐ?」
「そろそろどこか違う所に行くんだろうなと、いつの間にかそう思うようになりました」
堀と会ってからのことだ。誰にも気付かれずにいた百合が堀と出会ったことで、時間が動き出したのかもしれない。憧れていた人に会えたからというのもあるだろうか。
「だから、1つお願いしてもいいですか?」
「はい、僕にできることなら」
「わがままだし、無理かもしれないとわかってるんですが……軽井沢に行ってみたいんです」
「軽井沢……」
「見てみたかったんです、ずっと」
堀は転生してから図書館とその周辺しか見たことがない。生前は関わりの深かった軽井沢だが、今どんな様子なのかはわからない。行ってみたいという気持ちもあった。
「できるかわかりませんが、遠出の許可をお願いしてみます」
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