約束に帰る


こんな夢を見た。
薄暗い部屋に座っていると、どこからともなく声がした。「百年待っていて下さい」と。
ああ、と声がもれた。何故忘れていたのだろう。待っていなければならなかったのに。私の墓の傍で待っていて下さいと言われたのに、ここは一体どこなのか。
そもそもあれを言ったのは誰だったのか思い出せないのだ。そんな約束をするからには大切な人だったはずなのに、名前も顔も全く浮かばない。
行くあてもないが、とにかく墓を探さなくてはと気持ちばかりが焦り立ち上がった時だった、「どこに行くんですか」と後ろから声がした。先ほどまで誰もいなかったはずなのに、すぐ後ろから聞こえた。

「どこに行くんですか、夏目先生」

本を抱えた司書が立っていた。いつもの意志の強そうな目でこちらをじっと見つめていた。

「行かなければならないのです」
「だから、どこへ?」
「思い出せませんが、私は待っていなければいけなかったのです。ここに来てはいけなかった」

司書がゆっくりと目を伏せた。どこか悲しげな様子に胸が痛む。

「そうですか……私が呼び出したばかりに、ご迷惑をおかけしました」

すうっと司書の体が消えていく。待って下さいと伸ばした手は届かず、本が落ちる音だけがやけに大きく響いた。
でも、やはり行かなければならないのだ。約束をしたのだから。

▲ ▼ ▲

「夏目先生?」
「私は、行かなければならないのです」
「……もしかして、寝ぼけてらっしゃいます?」

気付くと補修室から出てすぐの所に立っていた。窓の外はもう暗い。そろそろ補修が終わる時刻だと司書は様子を見に来たらしかった。
潜書で喪失状態になって補修室に運ばれたのだったとやっと思い出す。

「お茶と羊羹、いかがですか」
「いいですねえ、甘いものは大好きです」
「よかった、元気そうですね」

司書は補修室のドアを開けて中に入ると電気をつけた。机の上に2人分のお茶と羊羹を並べる。いそいそと席に着く漱石を見て、司書は小さく笑った。

「どこに行くつもりだったんですか?」
「いえ……夢を見まして」
「どんな?」

司書に悲しげな顔をさせたあたりは省いて夢の内容を説明すると、司書は笑って夢十夜ですかと言った。そういうお話がありましたよねと。

「ああ、夢の中では気付きませんでした。あまりいい夢ではなかったのですが」
「この前おっしゃっていた、羊羹で作られた家に住む夢の方が良かったですね」
「それはそうですよ。あれは本当に幸せな夢でしたから」

至極真面目な顔でそう言った漱石は羊羹を口に運び、その甘さに笑みを浮かべた。

171007
title by icy
参考:夏目漱石「夢十夜」

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