仕事に疲れて、まとまった有給をとって沖縄に行こうと思い立ったのは、夏の暑さが少し和らいで、電車に乗る人のピリピリした苛立ちがすこし収まったかなと思える頃だった。
自分の仕事は落ち着いたといえど仲の良い友人も仕事が忙しい人ばかりで、 そんな人の有給を無理して合わせてもらおうとも思えず、仕事帰りに通る旅行代理店の前を、ここ数日ゆっくりと伺いながら通っていた。
国内旅行のスペースには、沖縄、北海道、広島、長崎……と私にとっては非日常的な地名がデカデカと掲げられている。
「おきなわ、おきなわ。」
やっとお店に入ったときには、口から目的地を自然に何度も呟いてしまっていたらしい。どんなのがあるのか棚を吟味している私に、不意に斜め後ろから、話しかける者があった。
「沖縄に行くんだったら海には入った方がいいぞ」
「えっ?」
思わず振り向くと、思っているよりも20センチほど高いところからこちらを覗く男の人がいた。勢いよく振り返っただけでは彼の胸元を見つめることになってしまって、その後グイッと首を上げる羽目になる。
「すまん。 すごく楽しそうに見てるもんで、つい話しかけてしまった」
目が合った男性は、申し訳ない、と謝った。グレーのスーツ、深紅のシャツ。オールバックで、顔もすごく整っているのに柴犬を感じさせる柔らかさがあるな。と一瞬のうちに思った。しかし彼は自分が少々近寄りがたい風貌をしていることを気にしているような雰囲気があった。
「ああ、すみません。 ありがとうございます。 ……やっぱり、海には入るべきですかね? 私、あんまりそういうことするタイプじゃなくて」
自分は旅行こそぶらっと急に行きたくなるが、あまり外ではしゃぐタイプじゃない。
この人は沖縄に詳しいんだろうか。
それが桐生さんと私の出会いだった。
私が一人で行こうと思っていることを伝えると、彼は、桐生さんは少し目を伏せて、そうか、と呟いた。
彼は沖縄に住んでいるらしく、今は数日友人に会いに新宿に来ているのだと言う。
いつ頃行く予定なんだ。
俺は沖縄で養護施設の管理をしてるんだがよかったら少し沖縄を案内しようか。
バカ、沖縄の海は水着で入るもんじゃない。今はまだ日が強いからTシャツを着て入るんだ。
そんな会話で、連絡先を交換することに自分はあまり抵抗はなかった。
一人で行くんだから、沖縄で何をしてもいいのだ。組まれたツアーに従って歩くのではなく、今回の旅行はのんびりしよう。
少し先になってしまったけど、私は4泊5日の休日をとって、晩夏に沖縄に行ったのだった。
沖縄は曇り空の日もあったけど、概ね晴れていて天気に恵まれていた。
数時間乗っていた飛行機から降りると、ヤシの木のような背の高い木が何本も生えているのが見えて、沖縄だ!とテンションが無性に上がってしまった。
まずはホテルにチェックインしてしまおう。タクシー乗り場は……
キョロキョロしながら歩いていると、竹中、と何故か私の名前が呼ばれた気がした。
「、桐生さん!?」
振り返ると、神室町で見たスーツの姿ではなく、気の抜けたアロハシャツを着た桐生さんが立っていた。たしかに那覇空港に着く時間は桐生さんに伝えていたけど、まさか迎えに来るとは思っていなかった。この人は色んな人の事情に、積極的に首を突っ込むタイプなのだろうか。
「どうせホテルまでタクシーで行くつもりなんだろう。 レンタカーを借りたから乗らないか」
「えっ?? いいんですか?」
「元々そのつもりだったからな」
少しびっくりしたけど、あれから連絡を重ねて、今日はホテルについてしばらくしたら桐生さんに美味しい沖縄料理の店に連れて行ってもらう予定だったから、申し訳ないけどありがたい話だ。
「……じゃあ。 お金は払いますからね!」
別にそんなもんいらねえのに。
桐生さんはそう笑って私のキャリーバッグをサッと奪った。
そんなに私、頼りなさそうに見えるのかな。
そっと触れただけの指が、彼の優しさをどう定義したらいいかわからず宙を舞っていたが、沖縄の暑さと自由の身である嬉しさで、どうでもいい事かとすぐに結論づけた。
田舎には時々こうやって無償に優しい人がいて、だから人は心を癒やしに来るんだろう。この人はそういう人で、お節介な部類に入るのだろう。養護施設を管理してると言っていたし、きっと温かい人なのだろうな。
「竹中、喉乾いてねえか?」
「あ、少し。 自販機寄っていいですか?」
「ああ」
こっちだ、と桐生さんが舵を切った。
私は底の薄いサンダルでペチペチと彼を追った。
なんとなく彼の耳触りのいいバリトンを、聞き漏らしたくなかった。