「入れ」
午前の稽古が終わり、隊士達が各々訓練で流した汗をさっぱりと洗い流したくらいの頃合いで、斎藤一は土方の部屋を訪れた。
土方はすっかり身なりを整え終え、ハラリと落ちた一房の前髪以外は一糸乱れぬ姿で書物を読んでいる。
さて斎藤がこの部屋を訪れたのは、他でもないこの土方に、何やら善からぬ噂が立っていたためであった。
――これはウチの隊士から聞いた話なんやけどな。歳ちゃんが毎週水曜の昼下りに決まって祇園に行って、ベロベロに酔うて帰ってくるらしいわ
勿論この噂を斎藤に伝えたのは沖田総司だから、斎藤も初めのうちは沖田の空言だろうと高を括っていた。
しかし先々週の水曜、土方は未の刻過ぎに外出したきりついぞ帰っては来ず、夜分遅くにズ、ズ、と摺り足が土方の部屋へ入っていくのを斎藤は聞いてしまったのだ。
足音を鳴らすなど土方にしては大変不用心である。痛手を被ったか大層酔っていたに違いなかった。
その次の日の土方はいつもと変わらぬ様子にも見えたが、何やら眼の陰が深いような気がしてならなかった。
――これは怪しい。
プライベートに立ち入る気は無いが、鬼の副長とも呼ばれる男が何故そのような状況で帰ってくることになったのか。斎藤は調べを巡らせることにした。
とはいえ密偵は土方なぞにつけられる筈がない。下手な出方をすればうちの隊士が二、三人斬り捨てられてしまう。
それくらい普段は油断も隙もない男なのだ。
斎藤はまずこの異変を見知ったものが沖田以外に居ないのか、慎重に隊長格に聞いて回ることにした。
「副長がベロベロに酔うて帰ってくるやと?」
斎藤はまず初めに永倉新八の元へ向かった。
永倉は沖田と仲が深いから、てっきり沖田からもその話を聞いていると思っていた。
しかし永倉はその話を初めて聞いたようだった。
「そういや副長は木曜の朝は他の曜日に比べて起きてくるんが遅い気もするな」
やはり定期的に通っているようだ。
次に斎藤は井上源三郎のもとを訪れた。
「副長が決まった曜日に飲みに出かける、か……」
井上はどこか思い当たる節があるようだったが、理由までは知らないということだった。
「え、なになに。なんの話してるんですか」
そこへ通りがかった藤堂平助が、横槍を入れてきた。
「いや、副長が毎週水曜日にきまってどこかに出掛け、遅くに酷く酔って帰ってくるらしいんだが……平助はなにか知っているか」
「あ、それなら……」
平助は何かを知っている様だった。
「土方さん、最近熱心に自室に篭もって墨を磨っているんですよ。ありゃ病気ですね」
「墨だぁ?」
「アレ、源さん土方さんの趣味知ってますよね」
「あ、ああ。俳句か」
「そうそう。たぶんあの人、恋をしているんじゃないでしょうかね」
「……」
「……」
予想外の考えへ行き着いてしまった。
鬼の副長は、恋をして毎週決まった曜日に酔って帰ってきているのか。
「土方さん、今週はどのくらい詠まれたんですか」
「ええ。五句ほど」
「毎週増えていってますね。歌は発生するものなので、無理して創り出すものではありませんよ」
「……ええ。しかし、心に発したいものがあるうちは、もやもやとして詠まねばならぬと思ってしまうのです」
「そうですか。であれば、五句できたものをお見せください」
土方は祇園の外れにある小ぶりな屋敷を訪れていた。
この屋敷の娘、伊織は洛内にある寺子屋で読み書きを教えている先生だ。裁量良く、物腰も柔らかで子供たちに好かれている。しかし少々病気がちなのか、血色がよろしくないところがあった。
土方は近藤さんと伊織の父親の手引で、何故かこの女先生に毎週歌を教わっていた。教わっていると言っても、百姓上がりの土方が所々読めない文字があった際に尋ねるというのと、専らは歌の添削が主であった。
「中秋を 野犬がにほひ 駆けていく」
伊織の落ち着いた麗らかな声が土方の詠んだ歌を読み上げる。
「ふむふむ。これは夜道で野犬が何やら嗅ぎつけてかけていく様子ですね」
「ええ」
土方はよほど歌に自信があるのか、己の作品を読み上げられても眉一つ動かさずに伊織の手元を見つめていた。
伊織は尚も続ける。
「あぜ道を 案山子が見守る 畑かな。……これは?」
「多摩のことを思い出して書いたのです。同じように月の夜道のイメージです」
「よくできていますね」
「……ありがとうございます」
「紅蜻蛉 廊下につと 止まりける。ふむふむ。すっかり秋ですね」
「……」
「えー、 掛け声が ようく響くぞ 秋の空」
これは非常に土方らしい句であった。
というのも、土方は実に歌の才能が無かった。これは近藤さんが土方を"かわいい"と思う点の一つである。土方歳三は剣を振れば荒々しく肉を断ち、軍事においては生まれついての勘でもって多くの敵を返り討ちにしてきた。白目がギラギラと冴え渡り、涼しい顔をしているので女にも好意を持たれやすかったが、本人は一向に気にならないといった様子だった。そんなことよりも新選組という組織をどう動かしていくか。近藤局長をどう出世させるか。そういった思案ばかりしている男だ。
しかし、彼の趣味である歌。こればかりはどこか思春期の少年ような歌を創るのである。
一番最初に詠んだ歌なぞは、
桜の木 この世に見えぬ 美しさ
普段あんなに堅物な頭から、どこをどう捻ればこんなに素直な歌が詠めるのか、近藤はこの欠点をいたく気に入っていた。
かく言う伊織も、この土方の見た目に似合わぬかわいさに、笑みが溢れるのを必死にこらえながら添削を行ってきた。
(ようく響くぞ、という言葉選びがとても愛らしい。隊士で運動会でもなさったのかしら)
「いかがですか」
土方が大真面目な顔で感想を求めている。
「非常に素直で善いですね。これは隊士の掛け声ですか?」
「ええ。つい先日隊毎に稽古試合をしたもので」
壬生狼と恐れられている新選組が、やはり鍛錬のために行ったのであろうとは思うが、その結果できたのがこの歌だとも考えるとなんとかわいらしいことか。
「土方さんらしさがよく顕れた歌だと思います。これからもこのような歌を詠んでいってくださいね」
「? わかりました」
次が最後の句である。
「見るほどに 焦がれる思ひ 沢桔梗。……これは」
これは大事件である。土方さんは、恋をしていらっしゃるのか。
土方に目を遣っても、先程までの歌と何が違うのだといった様子で微動だにしていない。
「多摩に……残して来た御方がいらっしゃるのですか」
「いいえ」
「さ、左様ですか」
「……」
そのまま沈黙が流れてしまった。
(いけないいけない。添削を)
「これは私の見解なのですが……。この歌からは、好いた人を、花を見ては思い出してしまう、そんな恋心を感じます。……美しくまとまっていると思いますよ」
「そうですか」
それっきりまた沈黙が流れてしまう。
二人のいる座敷の外では、少しずつ日が弱まり秋の虫が鳴き出していた。
「……土方さん、もしや、季語を意識しすぎているのかもしれませんね。俳句は確かに季語が必要ですが、一度季語がない川柳などを詠んで言葉の選択肢を増やしてみましょうか」
「なるほど」
「で、では、来週は俳句ではなく川柳を添削いたしましょう」
結局土方はそそのままいつもと変わりなく屋敷を後にしたのだった。
「斎藤くんか。どうした」
そして冒頭に戻る。
「土方。最近夜遅くに酔っ払って帰ってきただろう」
「……なんの話だ」
斎藤は口の中だけで笑った。
「いや、別にいいんだが、もし酒の相手が欲しけりゃ、一人で管巻いてねぇで話くらい聞いてやるのにと思ってな」
ジッ、と書物を置かず座ったままの土方が斎藤を睨みつけるように見上げる。
「それには及ばない。隊士の中で噂にでもなっていたか。今後は気をつけよう」
そしてそのまま書物に目を落としてしまった。
言外で「帰れ」と言われてしまった斎藤は、そのまま戸を開け土方の自室を後にしたが、成程これは平助の言うとおり、何か可笑しいらしい、と満足気であった。