やっちまった。
前々から桐生に一方的に劣情を抱いていたのは間違いないが、それにしても襲うつもりなんて、本当は、なかった。
ずっと前から探っていたが、数ヶ月前に桐生が女の話をしたから。……その時から、どうにも言えない感情が己の中で膨らんでいくのを無視できなかった。
桐生のことを誰よりも知っているのは俺だし、桐生をずっと側で見てきたのも俺だ。
あんなにかわいかった桐生が、こんなに逞しい男になって、誇らしいと同時に心配にもなる。男も女も、黙っていられない見た目だ。特に、お目の高い人間なら近づきたくなるのは当然の男だ。
もし桐生に、俺以上に大切な人間ができたら――
考えただけで息ができなくなりそうで、苦しくて仕方がない。
しかしあの夜、桐生は確かに女と寝たと言っていたのだ。
夢のような熱帯夜を過ごしてから、桐生とは顔を合わせてもどこかぎくしゃくしてしまうようになっていた。
こうなることは予想できていた。だからどれだけ好きでも、何もできなかったのに。
壊したのは、俺だ。
ふと、ポケベルが鳴った。
――724106
桐生か……。
10 305(イマ 305)と送り返す。305は俺のアパートの部屋番号だ。
桐生は今日何しているんだろうか。
――194
はあ? 来る??
そう思った瞬間、玄関の扉を叩く音がした。
「急にどうしたんだよ」
平然を装い、至って普通に招き入れた。
「麦茶飲むか?」
「……ああ」
桐生は何か神妙な顔をして、いつも座るところに何故か正座をしている。
……嫌な予感がする。
「あのよ……。先週のことなんだがよ」
桐生に捨てられるくらいなら、なかったコトにしたい。
「俺がワルかったよ。……ちょっとした悪戯のつもりだったんだ。まさかお前がまだ……その、ヤッてないとおもってなくて」
コップに氷を入れ、キッチンに立ったまま話しかけるが、桐生は俯いたままだった。
「……すまん。もうしねぇから、、ノーカンにしろよ。な?」
笑って話しているつもりだったのに、最後には真面目な顔になってしまった。
しばらく、沈黙が続いた。
「……にしき」
「おう」
気にならないふりをしてちゃぶ台の上に麦茶を注いだコップを置くと、桐生の向かいに腰掛けようとした。のに。
その瞬間桐生が立ち上がり、こちらの腕を掴んでいた。
突然のことで。桐生の掴んだ手が熱くて。驚いてしまう。
「錦、」
こちらを見つめる桐生の目が、切なげに顰められたまま近づいた。
「おいッ……」
……キスされるかと思った。心臓がバクバクと煩い。……いや、桐生はキスするつもりだったのかもしれない。俺が思わず静止したのだ。
「おい……桐生、やめろよ。マジになんなよ」
ハハ、と笑って近づいた胸を突き返した……筈なのだが、実際には俺の声は震えてちゃんと笑えていたかわからないし、力が入らなかったのか桐生との距離も全然変わっていなかった。
「知ってるかわかんねえけど、俺割とああいうことするし……。桐生にとってはそりゃ、初めてだったかもしれねえけど……」
焦って有る事無い事、ベラベラと御託を並べた。自分の感情がバレなければ、それでいい。俺は元に戻りたいだけなんだ。
がしかし、そこまで眉を顰めこちらを見つめていた桐生が、奥歯をギリッと鳴らした。
「き、桐生……?」
「……お前、あんな事他の人にもするってことか」
低く地の底から聞こえてくる音だった。
「な、何怒ってんだよ」
「……錦」
「……なんだよ」
「もし嘘なら、嘘だと言ってくれ」
思わず息を飲んでしまった。
桐生は懇願するような眼でこちらを見つめていた。
「頼む。錦」
こんなに桐生に真剣に見つめられて、嘘が突き通せる奴がいたら教えてくれ。俺の積み重ねた壁なんて、一瞬でぶち壊してしまう男だ。
「……ウソだよ」
「……」
「お前だから、俺は」
先の言葉は続かなかった。
桐生に、口付けられていた。
優しく、唇をくっつけるだけのキスだった。
「好きだ」
突然の桐生から告げられた言葉に、錦山の目が大きく見開かれ、やがてそこから涙が溢れ出した。
「……バカ、お前、童貞みたいなキスしやがって」
笑っているのか、泣いているのか。いや、どちらもだった。
「もう童貞じゃねえよ」
――誰かさんのせいで。
優しくあやす桐生の胸の中で、錦山は涙を流していた。
いつからだ、とか、じゃあ女と寝たのは嘘なんだな、とか。言いたいことはたくさんあった。
でもしばらくは、ただこの温もりに甘えていたい。
麦茶の氷はもうすっかり溶けていた。
Fin.