神室町、1988年、公園前通り。
錦山は路地裏の入り口で本日7本目のキャビンを取り出した。もうかれこれ5時間はここに突っ立っている。
今日の仕事は、「待ち」だった。
とにかく待て。待てるだけ待て。
(待てっつってもなあ)
錦山の他にも二、三人の組員が同様の仕事を任せられていた。彼らは代わる代わる遊びに出かけ、しかし「待ち」飽きたのだろう。入り口を完全に封鎖せんと地べたに座り込んでしまっている。
("ああ"はなりたくねえしなぁ)
錦山の着ているスーツは安くない。見栄のために買ったスーツを、地べたにつけて座り込むのは美意識に反する。
昨日までは随分と冷え込んだ夏だと思っていたのに、よりによって今日はピーカン照りだった。冷えていたアスファルトも太陽に熱され、青々と高い空がそこら中のガラスに映って乱反射している。
――そういえば桐生は幼い頃、大きいビルのガラスに太陽が映っているのを見て「太陽がふたつある」と指差したことがあった。当時は本当だ!と心の中で思っていたが、後日桐生の描いた絵には太陽がふたつあって、先生に突っ込まれていたのを思い出す。やはり太陽はひとつだった。
「アニキ!おつかれさまです!」
考え事をしていると、座り込んでいた組員たちが勢いよく立ち上がった。錦山も足を揃え頭を下げる。
「おう。どうだ。出てきたか」
「いや……それがさっぱり。電気メーターだけ回ってますから、中にいるとは思うんすけど……」
錦山は"目標"のいる部屋の窓を見つめた。一切動きはないが、やはり中にはいるのだろう。錦山他この三人は、中にいる"彼"が外に出ないよう見張り、若しくは出ようとしたところを捕えるために今日一日ここに立っていたのだった。
「おーい。熊木さんよーぉ」
アニキが大声を張る。
「地上げ」だ。物件の部屋を安く買い占め、それを他の不動産やそのビル群を大きく使いたい富豪に売り捌く。或いは堂島組の場合、ややこしいことに不動産に頼まれてこの仕事をしている部分もあった。立ち退きのための脅しは不動産が行うと傷がつくので、ヤクザと提携を結んで効果的に脅してもらうのだ。基本的にWin-Winでやっていけるため、このご時世には地上げをしていない組の方が少なかった。銀座には一坪に一億円の土地だってザラに存在する時代だ。
「粘ったって意味ねえんだから早く出ておいでよー」
当然だが、応答はなかった。
「これ持っとけ」
アニキが濃紺のジャケットを脱いでこちらに投げた。反射的に掴むと、タバコの臭いが錦山の鼻腔を刺激した。
「お前は恐くねえんだよなあ。外で待っとけ。おい、お前ら行くぞ」
「……はい」
アニキはドスを片手に三人を引き連れ中へ入っていく。錦山だけ一人外で待機となった。
(こわくねえ、か)
確かに恐くなる努力はしていない。
――こういうとき、桐生なら。
先陣を切って突っ込んでいく役回りを任されるのだろうか。あいつは、黙っているだけで、こわいから。
その時ピピッと、胸のポケベルが通知音を鳴らした。
――04510 5963 333 0106
(オシゴト ゴクロウサン 333 マッテル)
その桐生からだった。
333はセレナのことだった。向こうは向こうで仕事が終わったらしい。
――39 0906
少し遅れるであろうことだけ、返しておく。アニキ達が入っていった建物の中はまだ静かなままだった。
再びポケベルを胸ポケットにしまおうとすると、また通知音が鳴った。
――49 51
「はあ?」
思わず声に出た。なんで急いでんだ、あいつ。何かあったのか。
そう思った瞬間、中からドンドンと大きな音が聞こえてきた。続けてガシャーン!と窓を割れた音がして、それは不動産に怒られんじゃねえかな、とぼんやり錦山は考えた。
知ったこっちゃねえ。
今はまだ、自分だって従っていくだけでいいんだから。
空の色彩はだんだん白を増し、夕方が近づいているのを教えてくれていた。