神室町の少し外。冴島は“二丁目”と言えば全てが通じる界隈を歩いていた。ここらへんはかつて住んでいた場所から近く、広く其々TPOに適したカフェやバーが存在していて、時代は大きく変われど街はその用途を守ったまま生きてくれていると冴島は知っている。

 御苑のあたりから神室町へ向かう道中、嫌味のない陽気なバーを横切る。“二丁目”に昔からあるバーで、自分は付き合いで数度入ったことがあった。バーのママは気のいいオカマだ。寄る積もりもなかったのに、店外へ少しだけ漏れるナンバーに何故か引き寄せられ、ドアを開けていた。

 中へ入ると、流れている音楽の音量が思っているより音が大きく、一瞬たじろいでしまう。店内は明る過ぎず、人で溢れかえっていた。
 あまり長居するつもりもない。店内をしっかり見てしまえば既に酔いつぶれた男やスイッチが入ってしまっているバカップルがいて、本当に変わらない無法地帯だと笑ってしまう。若い頃はここに来て散々誂われて逆上したこともあった。神室町はこういう場所も含めて神室町なのだと、改めて懐かしむ。

 冴島は悪人ではないが、ヤクザである。冴島の一体何処が黒いのだろうと為人を知っている人は首を傾げるが、白には成れないことを一番知っているのは冴島自身であった。20歳にして自分のことを黒に据える肚を決めてしまったから。……が故に、神室町のこの黒の雰囲気には、自ら親しげに近寄っていく必要があると思っていた。ここにいるから救えるものもある。

 見知ったママを店内に見つけ、そちらの方へ歩み寄る。20年以上の月日は彼――彼女の見た目を変えずにはいられなかったが、客に囲まれ、内から輝く彼女の芯は以前と同じく美しい。

「あら……? 見覚えがあるわ?」

 眉を僅かばかり顰めうーん、と唸るママに、そこまで思い出せたら充分だ、と笑う。

「元・笹井組の冴島です。若いときは兄貴分とお世話んなりました」

 パッ、とママの顔が明るくなる。

「冴島さんだ! 大きくなったわねえ。お勤め終えて、今や組長さんでしょ? 聞いてるわよ」

 ママの隣の女性が、へー!と高らかに感心した。流石、情報は届いていたか。……まさかあの頃の青二才だとは思ってもみなかっただろうが。

「遊びに来てくれたのね。奢るわよ。久しぶりの夜に。好きに飲んでね」

 ママはそう言って、隣の女性?に冴島さんは駄目よ。絶対火傷するわ、と囁く。……すべてが信頼できるお店だ。


 もらったウイスキーを煽って、カウンターで引っ掛けながらぐるりとお店を眺めた。……ふと、右手のテーブルに、ベタベタと絡んでいる青年二人がいることに気づく。このお店は特にお手洗いに近づくときには注意しなければならないくらいで、つまるところそのような光景は別に珍しくもなんとも無いのだが、運悪く片方に既視感を覚えてしまった。カウンターに置いたウイスキーはそのままに、ふらりと近づく。


「馬場ちゃん……?」

 こういうとき、話しかけず心にそっと仕舞っておける方が利口なんだろう。話しかけられた男も雷に撃たれたように、跳ね上がって愚直に冴島の目を見つめた。――やはり、その男は馬場茂樹であった。

「さえじま、さん……」

 あれ程五月蝿かった音楽が急にボヤケて、馬場の口から「ひ、」という空気の漏れた音が聞こえた。慕っている人間とこんなお店で遭遇した時は。
 瞬間石になったように見つめ合うだけの二人を横目に、先程まで馬場をつついていた隣の男が苛ついたように馬場の両肩を掴んだ。

 ぱちくり、と瞳孔を開いたままだった大猫が一度大きく瞬きをした。なるほど。なるほどなるほど。なるほど。
 納得したような言語が、喧しく頭の中で警鐘を鳴らす。なるほど。なるほどなるほど……!

「あ、あの、兄貴、あの……」

 眼の前の馬場茂樹は既に泣きそうな顔で、脊髄を通したのかわからぬ言葉をボヤいている。冴島が黙った儘だからであろうか。隣りの男が馬場に口を寄せた。

 無理であった。見逃すことなど不可能だ。感情だけ先行して冴島はとうとう馬場の腕を乱暴に掴むと、二人の目の前のテーブルをひっくり返す勢いで引き寄せた。ガラスが滑って氷と共に砕ける。

「おい!」

 違う。お前やない。
 馬場の肩を抱いていた男が何か喚いていたが、一度脳内でその顔面を叩き壊した。まだ煩いようなら現実にできる。しかし、その価値も無い。問題は冴島に物凄い力で引っ張られ、店内を横断させられている馬場の方だった。痛い、やめてと泣き叫んでもいいのに、だんまりを決め込んでいた。……覚悟も決まっていないのに。その事実が冴島を余計に激昂させた。

「あら、冴島さん……」

 店の地下へ降りるということは、その世界の深みに入ると云うことだ。再度ママが冴島を見つけ声を掛けたが、冴島は止まらずに一瞬目の色を元に戻すと、サ、と手を上げただけだった。引きずられている坊やは冴島の表情を読み取ろうと一生懸命顔を上げているが、歩調に着いて行けずつんのめっては引きずられている。

「あらあら。大変ね」

 あの部屋使うのかしら。暫くは誰も近づけられないわね。……そんな優しいママの憂いは普段の冴島が手に入れたものだ。


「冴島さんッ……何処に……」

 何処に。地下に降りて暫く進んだ奥の部屋の前で、冴島はやっと立ち止まった。通路は薄暗く、最早其処はお店ではなく、バックヤードのようだ。
 乱暴に扉を開けると、その部屋は以前入ったときと同じように管理されていた。小さな棚と、簡素だけど大きめのベッド。急に右手が疲れて持っていたものをベッドに投げるかのように、馬場を手放した。馬場は痛い、とも言わない。

「こないなところ、何しに来たんや」
「……兄貴こそ。何でこんなところにいるんですか」

 馬場には良くない癖がある。
 以前月見野で説教したときもそうだが、馬場はどこか自分の人生を投げ売っている節がある。人生の決定権を未だに得ていないかのような。RPGでもしているかのような。……以前二度も自分の命を自分で捨てようとしたときは、本人は真面目に責任を取ろうとしたつもりだろうが、冴島からするとそんなものは甘えの一つに過ぎなかった。――どんなに辛くても、生きなくてはいけない。

「質問に答ええ。俺は通りがかっただけや」

 キッと馬場が冴島を眼光で貫いた。

「通りがかっただけ……? それにしてはこのお店に詳しいんですね」
「……」

 暫し沈黙が流れる。

「俺は……俺はさっきの人と恋人なので」

 せっかく落ち着いていた脳みそが、また加熱される。冴島は素早く馬場の首を掴むと、そのままベッドの上へ縫い付けるように押し付けた。

「ッ……」

 息を詰めるように喉を鳴らす馬場は、何故こんなことをされているのか、やはり見当もつかぬようだった。