「ちゃんと頭拭いてくださいね。風邪引いたら拾った意味がないですから」
のろのろと緩慢な動きで立つ真島さんに、お母さんのような言葉をかけてしまった。……後悔。私が一人の人間であるように、真島さんも一人の成人なんだ。私よりずっと年上の。
「……おう」
ずるずると何かを引きずるように真島さんはテーブルに近づくと、座る前にス、とこちらを見下ろした。
ぱちり。その左目に眼帯は無く、ぎゅ、と急に心の喉が締まった心地がした。
「……」
「……すまん」
何に謝ったのだろう。お茶を入れてくれたことなのか、家に上げてくれたことなのか、其の右目より二回りほど小さく見える目だった何かを見せたことなのか。……はたまた、なにか別の。
「いいからとりあえずお茶飲んでください。一息つかないと」
ふう、と彼は確かに息を吐いて、向かいのテーブルに腰掛け、カップを両手で包んだ。
無意識と意識の境を探す。無意識であろうと意識することは、つまり意識で、意識してしまうのは、無意識。つまり、認識した時点で無意識などあり得ないのだ……などと、論じたのはフランスの哲学家だったか。
「……伊織ちゃん」
「……? はい」
真島さんがテーブルを見つめて重苦しそうに声を出した。話しだした時点でバツの悪そうな顔をしている。開きかけのゴロ美さんのピンクのポーチが、また細かく震えて音を鳴らした気がした。
「伊織ちゃんは、男の人が嫌いなんか?」
ああ。……そのことか。
確かに私は、女性が好きなんですと伝えた。一部の男性に苦手意識がある。
「……嫌いじゃないですよ」
真島さんが濡れたままの髪の隙間から、そろそろとこちらを見上げた。……年齢、幾つなんだろ。随分と幼く見えてしまう。
「そもそも男性女性であまり性別を別けて考えてません。……ただ」
好きになる性別なんて、大した問題ではないとも思ってる。
「私の……初めて付き合った女の子が、男の人に酷いことをされたことがあって」
「……」
「……本当の意味で信用できる人は、少ないとは思ってるかもしれません」
ごめんと譫言のように繰り返しながら泣きじゃくる彼女を抱えて、私は脳みそが沸騰してしまいそうな程に怒っていた。彼女は涙か汗か、ベタつく身体で必死に私の両腕にしがみついていて、彼女の白いセーラー服がこんなに薄っぺらいことにも、私の両腕にこんなにも力が無いことにも、全てに腹がたった。――力。そう、絶対的な差があるのは、力。敵わない。どんなに昇りつめても、ただ一点、そこだけは絶対に敵わない。そう思ったのは、もう十年以上も前の、夏の日のことだった。
「……そうか」
真島さんは注意深く目を逸らさずに私を見ていたが、私の回答を聞き終えたと判断すると、ゆっくり瞼を下ろした。
「女の子を護ってやるんも、男の仕事や思っとったけどなあ」
サァ、と、頭に血が上ったのがわかった。
――そんなことされなくても、私達は自分で自分の面倒くらい見られます。そうやって護って『やる』とか『仕事』とか、嫌ならやらなければいいじゃないですか。自分のエゴを押し付けるのも大概にしてください。……なんて。……真島さんに言うのも間違っている。
「……ゴロ美さんは、『桐生さん』の為にメイクをしているんですもんね」
「あ?」
ポカン、と一つの目が見開かれた。
もう一つの虚空の眼の周りも、同じように筋肉が動く。その様子を見つめて。やはりこの人は違う世界の生き物なんだなと。
「メイクを楽しむ女性が、何の為にメイクをしているのか、わかっていただけたと……勝手に思っていました」
噛み合わせるつもりが無い会話。
それからは時計の音と窓の外の車の音ばかり響いて、私は思わず立ち上がり、実家の母親が偶に来たときのような。一人プラス一人の空間を創り出してしまった。
何かそうしないと、良からぬことが起きそうで。怖かった。
私のせいではない。真島さんが、まるで真人間かのように、黙りこくっていたもの。
結局真島さんは暫く何かを考え込んでいたけど、少ししてやっと携帯電話を手に取り、そして礼を伝えて出ていった。
さらり。惜しくもないと思っていたリボンが、私の手から離れて地に落ちた。そんな出来事だった。
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