「大吾さん。次のお休みに、少々付き合っていただけませんか」

 仕事の一段落した会長室で、スケジュール帳を長いこと睨んでいた峯が声をかけた。次の休み、というのは無論大吾のお休みで、伝えた訳でもなく概算で声をかけたのか。日曜だった。

「……? 別にいいが、何だ? 峯から誘いなんて珍しいじゃないか」

 金庫番として動くようになって数ヶ月。二人の交友はそれほどまでに深くはなっていない。珍しい提案だった。

「いえ……実はF1のチケットを入手してあるのですが、一緒に行く人がいないので。ちょっと遠出ですが。……車は興味ありませんか」

 本当に人を誘っているのだろうかというような仏頂面で、淡々とそこまで告げた。断っても断らなくても「そうですか」と無表情で返してきそうだ。

「F1って……もしかして鈴鹿か?」

 “ちょっと遠出”と“F1”から、弾き出される行き先は一つ。三重県は鈴鹿サーキットだ。……それは本当に“ちょっと”の遠出か?

「……ええ。大吾さんのご都合が良いようでしたら、チャーター便を飛ばします」

 うーん……。なんというか。圧を感じて笑ってしまう。

「F1はあまり見たことないが……乗り物は好きだ」

 歳は変わらないのに、弟みたいに思ってしまうのは何故なんだろう。実際俺は峯のことを甘やかす傾向にあるし、この前そのことを真島さんにぼやかれたばかりなんだ。



 件の日曜日。

 当然私服で迎えに来た峯は、ダークグレーのテーラードジャケットを軽く羽織り、前髪を下ろしてサングラスを掛けていた。茶の革靴は見るからに良い物だと判る輝きを見せている。……本当に俺で良かったんだろうか。

「女性はあたったのか?」

 こちらに駆け寄る峯に、出会い頭そんな言葉を投げかけてしまった程だ。峯は一瞬立ち止まって「は?」と言いたげな顔をした後、「いえ」と短く答えた。
 こんなハイセンスイケメンを携えて出歩くのには、きっと苦労が絶えないだろうな。思わずまだ見ぬ誰かを憂いてしまう。今日は俺も髪を下ろしているが、ファッションセンスは釣り合っているだろうか。

 “ちょっと”の証言通り、サーキットへはすぐ着いてしまった。昼過ぎには決勝のレースが始まる。テレビで数回見たことがあるが、現地の観客は時速300kmで轟音を立てていく何か(何か視認できないくらい速いと思う)を数秒見送って、次の周回までちょっと待つ、といった不思議な行為をしていて果たして本当に楽しいのか、疑問に思ったことはある。
 きっといい席なのだろう、メインゲート近く、ストレートコースに車が曲がって来るところから抜けるところまでを見渡せる席に二人で腰掛ける。ビールを飲みますか、と聞かれたので適当に肯定すると、峯は1本だけ瓶を持って来てそれをこちらへ差し出した。
 現地の観客は……と前述の予想は、而して当たっていなかった。大きめのモニターに走行車が常に映し出されているので、ちょっと見ては待つ、という暇な時間が多いことにはならなかった。そして何より、爆音はずっと鳴り続けていた。

「峯はどこを応援してるんだ」

 レースが始まってすぐに、肝心なことを忘れていたことに気がついて隣に声掛ける。サングラス越しの峯の目は、何時もより熱を帯びているような気がした。

「   」

 こちらを見た峯が何かを言った。が、音が五月蝿くて聞こえなかった。

「……悪い、聞こえなかった」

 自然と自分の声のボリュームをあげて峯に伝える。さっきまでスクリーンを見つめていた峯は、すっかりこちらを注視している。目元に茶色が落ちた。
 綺麗だな、とぼんやり眺めていると、す、と峯の顔がこちらに近寄った。

「すみません。聞こえませんでした」

 ずいと口を寄せて、峯が俺の右耳にそう流し込んだ。き、聞こえませんでした。……ああ、最初からか。
 みねは、どこを、そう伝えようとして右を向く。が、至近距離の峯はなかなか顔を引こうとしてくれない。……このまま喋れば伝わるか? いや、少し右を、えーと。
 ぎこちない動きで少々左にズレて、右を向き峯の左耳に伝える。なにか。なにかおかしなことが、起きているような。
 一度耳を差し出して確かに俺の言葉を受け取った峯が、また顔を近づけてきた。

「マクラーレンと、トヨタです」

 今度こそ解答になった。電光掲示板に目を向けると、ようやっと離れた峯が、1、5、と指をそれに向かって伸ばした。1位と、5位。
 マクラーレンはいつも強いのか? そう続けて聞こうと思ったが、少しだけ。何かが落ち着く時間が必要そうだった。