時は高度成長期。己の肉体を武器に変えた女、万札を名刺のように配る男。左胸、鎖骨の下のバッジを見て怯む者、喧嘩を売る者。ごった返す神室町。この街が面白いくらいギラギラと輝きだす時分に、錦山はくだらねえなあと何処か醒めた気分で煙草のけむりを燻らせていた。浮かれ騒ぎの合間に、正気に戻れる人間じゃねえと信用ができねえ。セレナ裏の路地はゴミだらけだ。
 今日は桐生が忙しくしているらしい。このまま帰ろうか、何処かで飲んで“浮かれて”帰ろうか。そう考えあぐねている時だった。

「錦山さん! 居た居た!」

 風間組の若衆――名前は何だっけ。

「ああ? どうしたよ」

 人差し指と中指に挟まっていた棒を投げ捨てる。足元の水たまりがきゅうっと一瞬鳴いた。

「柏木さんがコレで……すぐそこだから来てください!」

 コレ。人差し指を一本ずつ立ててひょこっと上に出したそいつに、ああ、橋本だったか?とやっと名前を思い出した。anger。オーガだな。

「おうおう、どこだ」

 錦山は自分の声色が急に愉快じみたのを自覚した。世間が馬鹿なら俺も馬鹿にならないと。なんか楽しそっすね、と言いながら先導する橋本は対照的に本気で焦っているらしい、半べそをかいている。

 セレナ裏から天下一通りに出ると、すぐに橋本の先導は不要となった。
 天下一通りの路地から人が逃げ出している。天下一通りに流れた人たちが裏通りの様子を伺ってはヒソヒソと声を潜めて何か話していた。
 その人の塊を掻き分け大手を振ってツカツカと路地へ入ると、ちょうど抑え込む若衆の腕を振りほどいて胸ぐらを掴んだ柏木が、相手の鼻っ柱を拳で思いっきりへし折っていた。ばき、と不穏な音。死屍累々、彼らに護られる対象であっただろう偉そうな奴が、腰を抜かして無傷でへたり込んでいる。

「柏木さん!」

 大声で呼んだ。次の標的、あいつを殴っちゃ不味いんだろう。
全力で懐に飛び込むと、ビクともしない体幹に笑ってしまう。どうなってんだ、この兄貴は。

「親っさんが、」

 どおどお、と宥めながら肘鉄を喰らう前に急いでその言葉を口にする。柏木を止める効果的なブレーキは「かざま」。「かしわぎ」じゃない。案の定びた、と一瞬身体が固まって柏木に聞く耳が発生した。今のうちに急いで御託を並べる。

「親っさんがお勤めしてる内は、あんたが風間組の顔なんすよ。そいつ殴って大丈夫なんですか」

 ふぅ……、と激昂していた男の身体から深く息が吐き出された。無理に力は入れない。まだ腰は固くその意志を手放してはいないだろう。だたややあって、振り上げられた握り拳が開かれて錦山の頭の上にポンッと乗せられた。

「……、」

 件の相手に向けられていた視線がそのまま錦山に注がれる。ぎらり。人を殺せる。この人は人を殺せるんだ。
 ぞくぞくと錦山の身体にも電流が駆け上がった。が、この人は自分のことを決して殺さない。

「おい」

 柏木が腹の底から声を出した。

「帰るぞ」

 がたがたとその渋く唸る声が錦山の胸を揺らした。ずるり、と身体を離すと、柏木はもう踵を返している。

「錦、」

 その場にいる総ての人が安堵に力を抜いていた。

「腹減ってねえか? 付き合えや」

 血まみれの手を拭ったハンカチで、そのまま顔を拭いて柏木が吐かす。

「ご馳走様です!」

 ヘラリと笑って大声で叫ぶ。柏木のセーブが効かない時は、錦山か桐生が呼ばれて止めに入ることがしばしばあった。桐生のやり方よりも俺のやり方の方がスマートなんだろう。桐生が単発で呼ばれた時はたまに腹にアザを作って帰ってきていた。

「……ふん、調子に乗るな」
「ハイハイ、すんませんね」

 風間組の奴らをハイお開きお開き〜と散らした。ボコされた方の組は、もう知らねえ。



 その足で連れてこられたのは柏木行きつけの中華屋だった。

「錦、好きなものを頼め」
「大将! ラーメン特盛!」

 柏木もすっかり機嫌を良くしている。

「大将、冷麺特盛。あと餃子を二枚頼む」

 はいよーっと大将が間延びした声をあげる。柏木と錦山がこの店で食事するのは決して珍しいことではなかった。錦山は風間組の人間ではないが、効率良くシノギをこなしてよく風間組に顔を出す。親っさんが塀の中にいる今、柏木にとっても錦山、桐生の二人は数少ない気心の知られた仲であった。

「最近シノギはどうなんだ」

 煙草に火をつけながら柏木が尋ねる。今日はすまねえ、助かった――錦山もそんな言葉が欲しくてこの男についているのではない。

「おかげさまで順調ですよ」

 追加で頼んだ瓶ビールを注ぎながら朗々と錦山が答える。徹頭徹尾、この人の前ではいい子ちゃんで居たい。

「……そうか。それはいいこった」

 十人近く殴り飛ばしていた男がようやっとそのネクタイを緩めた。……堅い。礫のような男だ。

「桐生の方はなかなか上手くいってねえみたいですけどね。……今日も兄貴のケツ拭きだなんだってほざいてましたよ」
「……変わりゃしねえな」

 クク、と柏木が笑った。と、ちょうどそこで餃子が焼きあがる。ぱりぱりの羽根を見て錦山の腹がぐうとなった気がした。二人で小さくいただきます、と手を合わせる。
 風間組は親父――親っさんの不在でも、いい交友関係のおかげか堅実にシノギを伸ばしていた。一方錦山のいる母体堂島組は、如何せんやり方が荒い。経済の流れで大きくなってはいるが、敵も増えるわ下が上の尻拭いをするわで健全に成長しているとは到底言えなかった。桐生もその被害者だ。

「あ、でも、俺も……」

 お待ちかねのラーメンと冷麺が来て、錦山が箸を割ったところで呟いた。

「ん? 何かあるのか」

 一口入れた直後の柏木がおそらくそう言った。
 む。まむがわむもが。

「……いや、丹波さんって知ってますか」

 格段有名な人でもないが、柏木さんなら或いはと名前を出した。丹波は最近錦山とよくやり取りをするようになった男で、堂島組の中では稀に見る、理不尽に人を怒らない気のいい男だった。

「丹波か。名前は知っている。話したことはあまりねえが」

 扇風機の周る音とブラウン管から垂れ流されるニュースに乗せて、柏木がぼやいた。彼の皿に乗った冷麺はもう半分近くまで食されている。

「何か心配事でもあるのか」
「いや、心配事じゃなくて、その反対なんですけどね。妙に気に入られてるみたいで。丹波さんのシノギをどんどん分けてもらってて。……丹波さんにメリットあんのかなって心配になるくらいなんすよ」
「……優秀な部下が育てばそれはメリットなんじゃねえか」

 そんな考え方のできる奴が堂島組にいて結構だ、と柏木は卵を口に含んだ。

「俺としては嬉しいんスけどね。……桐生と比べたら随分と恵まれてますわ」

 ずぞぞ。錦山も海苔をつまんで、スープに浸して麺と啜る。

「ただ他の兄貴たちと違って妙に距離が近えから、どう対処していいかわかんねえ時もあるんすよ」

 ふうん、と柏木は相槌を打って、スイカに箸を伸ばした。丹波ねえ。あいつが衆の中でもそこそこのスピードで出世しているのは、要領がいいからだったか。

「……そいつ本当に信用できんのか?」
「はあ? 何言ってんすか」

 ふと食事の手を止めて、柏木が徐に尋ねた。

「……いや、俺の思い違いならいいんだが」
「何か気になることでもあるんですか」

 錦山も一度ビールを手に取り、こちらを向いた。いつもは隠れている造形のいい右耳がつるんと剥き出しになっている。柏木は数度目を瞬かせた。

「いや、特に無え」

 ええ? もう……柏木さんも身勝手なんすからぁと楽しそうに錦山が笑った。
 柏木は何故かそれ以上錦山のことを見ていられず、餃子に手を伸ばした。