それから凡そ二ヶ月もの間、錦山はとうとう大忙しになったらしく風間組に顔を出す回数がメキメキと減っていた。別に来いとも居ろとも約束を取り付けていないため、シノギが上手くいっているならいいこったと見切りをつけた。代わりに桐生が組に顔を出すことが増えている。
 しかしその日は、数カ月ぶりに二人が揃って風間組に顔を出していたのだ。ほんの一時の間。

「おい」
「、はいはい」

 柏木が唸った。ビクッと肩を上げた若衆を笑いながら、錦山が番茶を差し出す。CHまで発音していた柏木が錦山に一瞥をくれると、手元を見ずにそれを受け取った。桐生はまるで予期していたかのような早い対応に、胡乱げな視線を寄越した。

「お茶請けを……」

 慌てて若衆が棚から草加せんべいを持ってこようとしたのを制止して、錦山はその隣りにあったもみじ饅頭の箱を掴むと柏木の前へと一つ置いた。

「今日はせんべいが食べたかったんだが」

 仕事の手を止めて柏木が苦い顔をした。今日はせんべいの口。まだそういう愚直な願望に従っていたい年頃だ。

「残念、もみじ饅頭は明日までです」

 錦山がくるりと箱を回して、裏側をとんとんと人差し指で叩いた。……確かに消費期限が明日までとなっている。

「俺らも食べるの手伝いますから。……おい桐生」

 錦山は狐のようにニタリと笑って、箱から二つほどもみじ饅頭を掴むと桐生へ向かって二度ぽいぽい、と腕を振り上げた。風間組の事務所内を飛び交うもみじ饅頭。放り投げられた饅頭を難なくキャッチして、桐生は包装紙を剥き出した。

「ヒトのお土産をなんだと思ってるんだ」

 やれやれと頭を振って大人しくそれを手に取る。見上げると机の前に立つ錦山が、丁度ばくりと一口噛み付いたところだった。突然、PiPiPiPiと断続的な機械音が錦山の胸から鳴って、大きな口が味わうことを諦めたようにそれを一飲みした。

「仕事だ」

 錦山がもごもごと口を動かしながら眉を跳ね上げる。

「ひゃんと今日中に食べてくらさいね」

 ずいっと箱を此方に押して、錦山は口の中を空にした。

「ほんじゃま、行ってきます」

 桐生にヒラヒラと手を振って出ていく。

「おう、気をつけろよ」

 最近出稼ぎに征く人を見送る姿が板についてきてやしないか。

「……丹波ねえ」

 まだ熱めの番茶であんこを流し込みながら柏木がぼやいた。お喋りで働き者のキツネが出ていって、この事務所にはタヌキしか居ないような静けさが残っている。

「丹波……」

 桐生がそれに反応を示す。

「錦のシノギのパートナーですね」

 ぱあとなあ。ははーん、そこまでいっちまったのか。

「なんせ子分の面倒見がいいんだろ?」

 仰け反って柏木が問うた。だから錦山はシノギで成功しているんだ。

「いや……子分といっても錦だけなんですよ」
「はあ?」

 我ながら間抜けな声を出した。錦山だけ?

「俺も他に若衆が着いてるもんだと思っていたんですけど、どうやら違うみたいで」

――それはまた。

「……調べ物ができた」
「え」

 ギィッと鈍い音を立てて柏木が立ち上がる。

「桐生、今日はお前もなるべく早く帰れ」
「……はい」

 桐生は何かを察したらしく、大人しくもみじ饅頭を片手に頭を下げた。ジャケットを引っ掴むと若衆に事務所を任せる。外は雨の匂いが立ち昇っていた。
 ……さて、どこから探そうか。



 数日後。思いの外シノギが立て込んで、丑三つ時にも関わらず柏木は一人事務所にいた。机の上、処理中の紙束とは別に置かれた封筒を見遣る。――とある男のそんなに重要でもない過去が記された書類。
 ふと事務所の入口のドアを見ると、外に誰かが立っているようだ。暫く黙って見つめていたが、動いているのかいないのか、窓ガラスの向こうの影は一向に中へ入ってこようとしない。
 柏木は慎重に近づくと、件の人物を驚かさないようにドアを開けた。

「……錦山」

 外に立っていたのは錦山だった。中に入る気はなかったのだろう、ぼうっと見えない前方三メートルくらいの地面を凝視していた。声を掛けられてからゆっくりと五秒くらい、目を瞬かせて自分が何故此処に居るのか咀嚼して飲み込み直しているようだ。
 錦山の服は異様に縒れていた。本人がいつも気にしていると言っていたツヤツヤとした髪の毛束も、ぐじゃりとかき乱されたようになっている。口の端が切れて血が滲んでいる。
 ……情事。

 丹波の調査書。柏木が調べ上げた彼の過去には、やはり不穏な記述が紛れ込んでいた。
――人当たり良し。暴力的でない方法で堂島組での勢力順位を着実に押し上げている。特に金融関係のシノギがここ最近目覚ましい成長。地味ではあるが悪くないポジションまで上り詰めているのに、一点気になる箇所が。所謂、弟 分 が い な い 。過去に後輩が育っていない。久瀬や阿波野などの組持ちと比べると流石に劣るが、それでも部下が一人もいないのは明らかに不自然である。さらなる調査を続けたところ……。

「……にしきやま。」

 再度名前を読んだ。否、実際のところ何をしてあげたらいいのか、皆目見当がつかなかった。はだけたシャツから覗く胸元を、見ないように努めることしかできない。

「……柏木さん、俺、」

 か細く錦山が声を出した。……ヤられたのか。どこまでやられたのか。痛めつけられたのか。その唇は、殴られたのか。確かめたいことはぐるぐると浮かべど、それを聞くのが正しいかどうかなんて判りゃしない。嗚呼、俺は錦山といったいどんな関係だったか。

「……あは、やっぱ人を見る目無いっすわ! 酷え目に遭っちまいました」

 突然自嘲の笑みを浮かべて、何が面白いのか、錦山はけららと嗤った。
 その表情といったら。泣き出してしまいそうな花が、枯れることを待って道端で踏まれながら佇んでいるかのようだった。他人の――錦山の笑顔を見て、こんなにも不愉快な気持ちになったのは後にも先にもこの瞬間だけだろう。
 とにかく不愉快だった。それでいて、妬ましく、苦しく、痛く……錦山を俺のものにしなかったことを酷く後悔した。

 思わず肩を掴んだ。錦山の剥き出しになってしまった傷だらけの心臓を、洗って塞いで治療しなくてはいけない。此奴を失ってはいけない。俺の大事なものを守らなくては。錦山はここで壊れる訳にはいかない。全部俺が見て受け止めなくては。
 錦山の肩は震えていた。痛みに寄り添うようにその解れた髪を梳くと、先日見つめられなかった耳に指が引っかかった。がり、と爪を立てると素直に赤みを湛えて、桃のようだ、とぼんやり思った。肩に乗せた己の掌がずるずるとその背に回るのを止められなかった。甘い匂いを放つ白桃に口を寄せると、自分の左耳に錦山の呼気が伝わった。浅く熱い。朗らかな声帯がひゅうひゅうと、かさかさと音を立てている。熱に浮かされたように、でも優しくその果実に唇をつけると、柔らかな果肉と産毛がくすぐったい。しばらくやわやわと弄んでいたが、その喉が「あ、」と「う、」とも言えるような嬌声を漏らして、とうとう何かがぶっ飛んでしまった。歯を立てると、恐ろしい、本当に飲み込んでしまいやしないか心配になる。蜜のような声はぐずぐずと漏れ続け、貪りを、枯渇を加速させた。この果実に触れた者がいる…? 気が狂ってしまいそうだ。未だそれを食んで尚、愛さなくてはいう欲望は強く増した。ぎりぎりと顎の力を強めてその軟骨を味わって……

「柏木さん」

 己を呼ぶ声が想像と大きく違って、我に返った。

 ともすれば強姦されたかもしれない弟分に、俺は何を。

「すんません、ちょっと、休んでってもいいですか」

 柏木は錦山の肩にさえ触れていなかった。ぐらつく錦山は今にもこちらに寄りかかってしまいそうだが、脂汗の滲んだ手は、ピクリとも上がらない。

「あ、ああ。俺はちょっとだけ買い出しに出るから……留守番を頼んでもいいか」
「……わかりました」

 了承の返答をしたはずだが、錦山はまだ茫然自失としているのか動かない。その髪に、肩に触れた瞬間大きな間違いを犯してしまいそうで――先程の幻覚に浸りながら、柏木がすれ違うように足を踏み出した。

「……すぐ戻る。鍵を締めておけ」
「……はい」

 しばらく歩くと、先程の甘い香りが思い出したかのように鼻を掠めた気がした。誰にも見えないように一度深呼吸すると、柏木はどうやって消してしまおうか、シミュレーションを始めたのだった。