井上がその少年とあったのは、月の明るい秋の夜であった。

 枯れかけた背の高い草をずさりと踏みにじったからか、何かが足の周りに絡みついて重たくなった感覚がした。
 使命のままに一人の男を斬り捨てその脂を吸った剣も、また鉛のように重い。いつもこなしていることなのに、死には何時だって汗が滲む。
 ガサ、と背後から音がした。くさむらに佇んでいたのは、ここのつ、とおの少年であった。かげに潜まんとしている井上の、大凡おおよそ見えていないとおぼしき顔を見つめている。
――あまりに見られては。
 あまりに見られては始末せねばならない。今しがた命をうしなったこのおとこの子であろうか。

「……あの」

 命にはこの少年を抹殺する内容は無い。下限の月をちらと一瞥すると、井上は足に纏わりついた稲草を蹴り切るように駆け出した。話し掛けた少年はその場で一歩も動かず立ち尽くしてその様子を窺っていた。所詮恨みを買う男の、餓鬼である。悪運さえあれば、よっぽど下らない人生かもしれないが生きていけるであろう。



 少年が壬生浪士の屯所を訪れたのは、その半年後、春のことであり、井上はにわかに彼の命を奪わなかったことを後悔した。

「大村譲です。よろしくお願いいたします」

 まだ稚さの残る体躯を折り曲げて、譲は井上に向かってぬかづいていた。揃えた指先は大層綺麗で、白魚のようだ。
 井上の隣に座する土方歳三が、こくりと一度顎を引いた。

「うちで身を引き受けた。何かと押し付けて申し訳ないが、育成に関しては源さんが一番だろう。頼まれてくれるか」
「構わないが……」

 この少年は、壬生浪士になるのか。

「大村。では本日より井上がお前の師となる。身を引き締めて訓練に当たるように」
「はいっ」

 顔を上げた譲は、やはり屯所で見かける男は勿論、近所で駆け回っている男子たちよりも際立って白かった。月夜に照らされて心許なさそうにしていた、透き通る頬が映える。――当然、俺のことと認識はしていないだろうが、太刀筋を見られていたかどうかが気掛かりだ。
 土方がすっくと立ち上がり、後にまた、と声を掛けて部屋を後にした。

「譲と言ったか」
「はい」
「どうして此処に」
「……身寄りがありません故、ここに入れば死体処理になるだろうと」
「……」
「強くなりに来ました」

 絶望を感じている表情ではなかった。親類に見放された上で、まだ生きられると己の価値を見出している。

「……そうか。しかしその様子では刀を握ったこともあまり無いだろう」
「殆どございません。しかし武士の子でありました」

 井上はふう、と深く息をついた。それは知っている。……しかし愛弟子と大きく性格の異なる少年であろうことは読み取れた。

「まずは着替えろ。俺のところに預けられたということは、雑用から始める必要がある」
「……承知いたしました」

 ぐりぐりとした黒目がこちらを強く見詰めた。歳の割に落ち着きのある少年だと思った。

「ところで譲、幾つだ」

 一文字に結ばれていた口が一瞬歪む。

「じゅうに にございます」



 それから譲は実に三年と七月の間、井上の下で稽古を積んだ。陽に当たらぬ草花のようであった手足は次第に筋張り、白魚の手指には小さな切傷やら火傷の跡が刻まれた。弱音を吐くことが無かったと言えば嘘になるが、それは剣の稽古のときが主で、華や茶などを簡単に仕込もうとすると楽しそうに吸い込んだ。その向上心に驚き、思わず褒めてしまったのが良くなかったのかもしれない、と井上は今考える。

「井上さん」

 譲が井上の下についてから二年ほど経った頃だった。
 新選組内で刀を本気で振るうことは殆ど無いとはいえ、井上の太刀筋を見ても変な反応は示さなかった大村に、井上は安堵を覚えていた。譲は本当にあの親の子だったのだろうかと思うほど、無垢であるように見える。また、年齢の割に物事を知らなかった。

「蘭学の書物なのですが」
「……ああ」
「鉄砲についての書物を以前土方様が手にしていらっしゃった折、私も書庫に行けば読めるであろうと伺いまして」
「……」
「書庫に伺っても良いですか」

 華道の腕を褒めた際に、照れたようにはにかむ譲は、其れより命を捨てるためではなく、命を見つめるために生き始めていた。しかし此処は剣を振るう場所。新選組となり所帯の大きくなった獣の組織で、華や茶、筆を自由に育てるわけにはいかず、井上は慌てて座学にて兵法を説きはじめたのだった。

「もちろんだ」

 あの時切り捨てなかった命が、感情を持って何かを選択している。奇妙な畏怖があった。己を見つめる瞳は、本当に総司の時と同じか。自信がない。





 それから直ぐのこと。
 非番の日に清水寺の方へ出掛けた折に、道端で譲を見かけた。同い年くらいの女子と一言二言、言葉を交わしている。
――嗚呼、これは知っている。
 何処となく安心した気分であった。自分の十四になる弟子が、年齢の背丈にあった行為をしている。……そういえば近頃、総司が譲を其の様な事でからかっていたようにも記憶している。ややあって、その女子はぱたぱたと町の方へ去っていった。……なんだ。いまから二人で寺に行くのではないのか。

「譲」

 水を湛えた草花の茂る道を抜け、清水寺へと向かう譲を、のんびりと追っていく。賽銭を投げ、熱心に手を合わせていた譲を、振り向いたところでようやく捕まえた。其の壮健な表情に、井上は少々面食らった。顔つきがすっかり大人になった気もする。

「井上さん。井上さんもお参りですか」
「……ああ」

 同じ隊に所属している以上、非番が被るのは当然なのだが。思えば、この場所へ初めて譲を連れてきたのも、井上だった。

「何を熱心に考え込んでいた」

 一緒に帰りたいのだろうか、井上のお参りを律儀に待っていた譲に、少々からかいを入れてやりたくなった。昔の譲は、何かを問い詰めると赤面してぐっと黙ってしまうところがあった。先ほどの表情からしても、もう、そういうこともあまり無いのかもしれないと感じている。

「……感謝をお伝えしていただけです」
「感謝。」

 案の定するりと言葉が出たが、予想とは反していた。

「ええ。総てへの感謝を。それと、その気持ちをお返しできますようにと」

 なんだ。やはり、そういうことであったか。

「もし……その。譲に想い人が居るのなら、お前は華を選ぶ目がある。花を送ってやると良い」

 何時ぞや、空気の止まったあの茶室で、華道を教えた日。初めてとは思えぬ腕前を思い出す。とりあえず褒めて育てようと微笑むと、其れに慣れていないのか「誠でございますか」と繰り返し繰り返し聞いた。何をそんなに疑うことがあるのか、と笑ってやったものだ。

「そう……ですね」

 秋の近づく京では、蒸したような花の香りが山道を覆っている。小さな風呂敷を抱えた譲が、つと、とそれに駆け寄ると、紅色の花を一輪手折たおった。

「では、これを」

 風呂敷を小脇に抱え直すと、両手でずい、と井上の眼前へ差し出した。

「井上さん、受け取ってください」

 譲の差し出したハギの花を、井上は暫く呆けて見つめていた。