何かが間違っているぞと笑った井上に、譲はあんなにも真剣だった。間違ってはおりません、と語気を強めてもう一度その花を差し出され、押し返すために譲の傷が増えた手に触れた。その、皮膚の硬さに驚いた。
「よりによって、ハギを選ぶな」
布団に横たわってもう寝ようかという頃合いである。井上の呟きは畳に吸い込まれて、山崎にさえ聞こえていないかと思われた。然しとて、その襖の外に件の人物の気配を感じて、井上は溜息を吐きながら上体を起こした。
「譲」
廊下から緊張が返ってきた。
「……」
親心なのだろうか、放って置いて寝る気にもなれず、渋い声を出しながら布団から這い出る。襖を引くと、確かに惑った様子の譲が立っていた。
「……」
何か用事があって来たのか。昨日花を押し付け先に歩き出した譲が思い起こされた。見下ろす背丈の少年は、あの月夜の彼と同一人物である。
「……廊下は冷える。用事があるなら入れ」
申し訳なさそうに足元を見つめている譲を招き入れる井上は、部屋の暗がりで暫し譲を待った。廊下は月明かりで思っているより明るかった。おずおずと敷居を跨ぐ譲に、嫌な感覚を覚える。――普通に入って来てほしかった。何も意識せず、何も知らないまま、ただの師匠弟子で有りたかった。……譲はすっかりそのつもりではないらしい。
こん、と木を打つ小さな小さな音がして、譲が戸を締めたのが分かった。灯りを点けるか躊躇してしまって、薄闇に二人の男の呼吸が溶ける。
「……」
「……」
入ったからには用事があったのだろう。しかし、「何の用だ」と聞けば、事態が悪化してしまう様な気がして、無粋で。恐れている自分も大概だな、と井上は嗤った。こんなの殴り飛ばしてしまえばいいのに。
「……ハギの花言葉は、」
井上が呆れながら口を開くと、譲がそれを遮った。
「わかっています」
二人の距離は、あの日よりも近づいている。すうっ、と、与一が息を吸った。
「お慕い申しております。」
師匠に対して使う言葉ではない。……親にも使う言葉ではない。
これまでに井上は何度かこの言葉を人から伝えられることがあった。彼の人生は短くない。然しそんな時、決まって井上の心はまるで冬に池の水を被ったかのように、ぴしりと凍ってしまうのだった。心をいくら交わしたかのように思えても、自分から慕っているのかもしれないと考えた相手でも、その冷却はいつも変わらぬものだった。――井上は人斬りだ。
然しまあ、今は。既に少年の命を許したことがあったからか。あまりにも現実味を帯びていないからか。その感覚はなかった。……こんな老いぼれのことを親と認識し、
その瞬間、返答を待ちかねた譲が、暗闇の中でこちらに向かって手を伸ばしてきた。真白い、手。傷の増えた、手。
「そういうのは、」
井上はその手を受け取ることができなかった。
「武田の、ところへ……」
音が飛び出た瞬間、後悔した。全部、自分が悪かったのだとさえ思った。こちらを見つめる譲の熱に、気付かないふりを決め込んで、子を許し、許さなかった。格別、なんて酷い事を言ってしまったのだろう。さあっと身体が冷えて、あの感覚が井上を襲った。
譲は、驚きのあまり喉が詰まったようで、くっ、くっ、と二回ほど苦しそうに鳴いた。後悔だ。……後悔。井上は思わず譲に寄ると、慎重にその身体を包んだ。……小さい。譲は身体を戦慄かせていた。
「……泣くな、譲」
もう何を言っても無駄だと分かった。だが、親として愛が無いと思われるのは怖くて、鈍い愛を恐る恐る与え続けていた。
夜は、明けてしまった。
§
それから一年半が過ぎた。譲は十六になり、また一段と背を伸ばした。
あの夜以来、譲はまるで何も無かったかのように井上と接している。精悍な顔立ちに近づき、剣の腕もかなり立つようになってきている。やはりあの時斬った漢には似ていない、人違いではないかとすら井上は思い始めていた。……もともと女性顔なのかもしれない。
「……山崎か」
明日の昼は新選組にとって大きな仕事があり、敵となる浪士の集う密会所を同時に数点攻め込む算段になっていた。夜更け、自室で休んでいた井上の元に山崎が訪れた際も、井上はすっかりその話だと判断した。
「……明日のことか」
不用心に戸を開けるとやはりそこには山崎がいた。
「一週間後の決行の話を覚えてますか」
粘つくような口調で、愉快そうに山崎が語りだす。
「一週間後。……ああ」
井上は、裏からの命で一週間後に人を斬ることになっていた。与一の親を殺したときのように、単独で、駒のように暗殺に向かう。
「ああ……それなんだがな……明日の昼になった」
「……なに」
単純に驚きが勝った。
「明日は浪士の襲撃がある。不可能だ」
「んなこた知らないんですよ……明日護衛が居なくなってちょうどいいから明日殺れって命なんでね」
「……いくら護衛が居ても構わん、来週決行する」
「それを言うなら、襲撃に居なくてもいいんじゃないですかい……アンタは“無用の六番隊”隊長だろ……」
くくく、と面倒な声で山崎が笑った。しかし殺伐とした新選組の中で、大一番の仕事に隊長が不在であることは許されなさそうだ。……特に、他の隊長たちが喧しい。
「とにかく茂木屋に羊の刻、件の男が現れる。いいか、新撰組の襲撃なんて知らねえ、お前は人を殺さないといけないんだよ。わかるな?」
それだけ言い放って、山崎が廊下へ消えた。馬の刻、羊の刻。立地的に、井上が二箇所の仕事を同時に決行するのは不可能だった。
「井上さん」
思わず大きな声を上げそうになった。山崎の消えていった方と逆の方向に、何故か譲が立っていた。
「私が行きます」
急ぎ、ズルリと手を掴んで自室に引き入れた。誰かに見られては事だ。
「……与一、今の会話を」
「私はもともと知っています」
井上の全身の毛が逆立った。知っている。知っている、とは、何処の事を。
「井上様に助けていただいた三年前の夜から」
譲は何故か至って冷静で、掴んだ腕は冷えている。二人の体温が混ざり合う感覚に、井上は自分の体温が異常に高まっていることを実感した。
「私が恩返しする番です。貴方の天然理心流には到底及びませんが、六番隊には私が居なくても問題ありません」
なんと愚かなことを。すべて知っていて此処に。
「井上さん。ありがとうございます」
臆病なんかじゃ、ないじゃないか。
次の日、譲は井上の笠を被って出て以降、もう二度と新選組に戻ってくることはなかった。
井上のもとには、よくやった、とお褒めの言葉が伝えられた。
月夜の晩は、今でも出会った日のことを思い出す。
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