20:00――業務終了。

 ちょっと遅くなったが、あとの仕事は明日に回したほうがいい。そう思い大吾はカレンダーを見遣った。
 違う。明日は休みじゃねえか。
 ヤクザ稼業は別に完全週休二日制ではないが、ダラダラと出勤していると仕事の効率も落ちる。……らしい。特に頭である大吾は、下の組織の奴らにも示しをつけるためメリハリをつけた仕事をした方がいい。……らしい。
 全部峯に言われたことだった。俺としては「じゃあお前はどうなんだよ」と言わないわけにはいかないが、峯は「六代目と私では立場が違います。それに俺は一企業の社長です。市場が閉まっていると言えど株は耐えず経済の影響を受けますから」……とかなんとか。そんなことを言われては、「そうかよ」としか言えなかった。組織のトップには極端に暇な奴か極端に忙しい奴しかいないと思っているが、残念ながら俺も峯も後者に属しているらしい。
 明日は休みか。もう一度机の上の閉じたファイルを見つめた。明日これには触れられないが、やっておかねばならない仕事は本当に無いか。
 不安に思いファイルを開いた瞬間、会長室の扉がノックされた。

「入れ」

「六代目。……まだ仕事してたんですか」

 勢いよく扉を開き入ってきた峯が、ファイルを開いた俺を見、普段から深い眉間の皺をより濃くして壁に掛かった時計に目を向けた。

「20時3分です。帰りましょう」

「あ……ああ。そうしようと思ってたところなんだ」

 峯は本当ですか、と言いたげな視線をこちらに向けた。本当だぞ。

「今日お前んちに行っていいか?」

 できる限り何気ない顔で聞いてやる。峯はぎゅ、と怒ったように顔を顰めると、その表情のまま扉を締めながら、「早く準備をしてください」と呟き、どこかへ行ってしまった。
 一人残された部屋で思わず笑ってしまう。あの顔は、嬉しいときの顔なのだ。部下は見て怯むかもしれないが、俺はあの顔をよく見るからわかる。照れ隠しで夜叉になる男なんだ。
 俺は開いたファイルを再び閉じると、デスクにしまい、そのまま鍵をかけた。恋人が急かしているならば、急がないわけにはいかない。







「大吾さん、なにか食べますか」

 お腹空いてますよね、とシステムキッチンのカウンターに立ちエプロンを着けながら峯が言った。
 先ほどいつものように訪れた玄関で、峯が入ると既にスリッパが二つこちらに向けて置いてあったので、また笑ってしまった。ハナから俺は今日誘われる予定だったんだな。

「そうだな、峯かな」

 屈んで戸棚からフライパンを取り出そうとしている峯に、少々遅れながら答えてやる。
 ゴン、という音がした。フライパンの取手から峯が手を滑らせたようだ。しかしすぐに持ち直して、曲げていた腰を伸ばしシャキッ、とこちらを見た。……真顔だ。これはちょっと怒ってる。

「ごめんごめん、じゃあ、峯のアラビアータが食べたい」

 真顔のままフライパンをコンロに置くべく峯がこちらに背を向けた。と、思ったらこちらを振り向いた。……何か言いたげな顔をしている峯と目が合う。

「みね……」

 思わず両手を広げてエプロン姿の峯の方へ駆け寄る。俺はいま最高にニヤニヤしているんだろうが、こんな顔は峯にしか見せないからお前らは知らなくていい。
 半ば引け腰の峯を抱きしめる。

「大吾さん」

 ぎゅ、と控えめながら受け止めてくれる峯に、頬をすりすりと寄せる。峯の匂いがする。峯の匂いに包まれている。

「大吾さん。アラビアータをつくるので、よかったらシャワー浴びてきてください」

 よく考えたら玄関でネクタイを少し緩めただけで、ジャケットも着たままだった。峯はさっさとジャケットを掛け、腕まくりをしてエプロンを着けているのに。

「ジャケット貸してください」

 少々名残惜しいが、峯がそう言って身体を離そうとするので、仕方なく応じる。
 峯は俺のジャケットを奪うとハンガーに掛けに向かった。
 シャワーか。お言葉に甘えよう。

「部屋入るぞ」

「どうぞ」

 峯の部屋のタンス、一段目は俺の服が入っている。そこから着替えを手に取るとバスルームへ向かう。
 服を脱ぎきったときには、峯がフライパンにオリーブオイルとニンニクを入れ火にかけた音がしていた。







 さっぱりとした状態でリビングへ戻ると、アラビアータは完成したようで、峯はそれを皿に盛り付けているところだった。いい匂いがする。
 一人でいたんだから勿論真顔だが、若干口の端が緩んで目が優しい。俺に置き換えたら間違いなく鼻歌をうたっている。俺は仏頂面と呼ばれる峯の表情の変化を見るのが好きだ。

「もうすぐできます」

 こちらに気づいた峯が、胡椒を振りながら言ってきた。

「お酒は」

「少し飲む」

「赤ワインでもいいですか」

「ああ」

 今に言うことじゃないが、さながら夫婦のようだ。俺にこんなに献身的な奥さんがいたら、お袋も安心できるだろうに。……実際峯のウケはお袋にも良いんだが。顔がいいからかな。

 俺が席につく間に、峯が食卓にお皿を並べていく。赤ワインの栓を開ける腕が逞しい。こんな奥さんがいてたまるか。

「お腹空いた」

 思わず口から溢れた。子供みたいな台詞だ。

「俺もです。……さ、食べましょう」

 いただきます。

 二人で手を合わせて食卓を囲む。
 峯の得意料理はオムライス、だし巻き卵、カレー、お茶漬け。カップ焼きそば。この前食材を入れておけば燻製にしてくれる機械を買ってきて、ウィンナーなりサーモンなりを放り込むだけでいいんです、と言いながら俺にも食べさせてくれた。すごく美味しくて、そこからは少しリピートした。チーズは網の上に乗せると完成する頃にはドロドロに溶けるから、アルミホイルの上に乗せてやるといい。峯は一人でいるとあまり食事に拘らないようで、俺がわざと来て良い物を食べさせている節もある。……ほら、献身的な妻だから。俺が来れば無条件で美味しくて身体にいいものを一緒に食べてくれる。

「美味い」

 俺はアラビアータが好き。カレーも好きだけど。

「よかった」

 俺がスーツからスウェットになっているからか、髪を下ろしているからか、峯はようやくこちらを見てにへら、と笑った。
 峯のこの表情を見るのも俺だけでいい。……できれば想像もしないでくれ。最初に見たときはそれだけで死ぬかと思った。お前たちにはおそらく想像だけで致死に達する。

 エプロン姿で破顔する峯は、アルコール量に合わせて少しずつこちらに気を緩めていく。
 明日が休みで本当によかった。