二人の朝が早いのは、囚人の大ベテランと礼儀正しい新人だからだ。
 どちらでもなく目を覚まして、まどろんで、布団を畳み、部屋を出ていく。洗顔から始めるのは馬場のルーティンワークだった。鏡を覗くと、目のギョロついた、感じの悪い青年が不機嫌そうにこちらを見ていて、不意に泣きそうになってしまう。何も泣くことなんて無い、大丈夫だよ、そう励ます自分は、ここ数年で友だちになったばかりだ。タオルで強めに目尻を擦る。
 ひたひたとフローリングを裸足が蹴って、ダイニングキッチンへと向かう。昼と夜の長さが同じになり、この時間帯の空は少しずつ暗くなってきていた。テレビを付けると、この時間帯にしてはテンションの高い芸能人が、ガヤガヤと人気のトレンドなどを紹介している。急いで音量を下げて、左上の天気予報に目を凝らした。晴れ、のち、曇り。降水確率は10%。そのままリビングの窓をカラカラと開けると、外の空気を吸い込む。洗面所からは髭剃りの音が聞こえてきていた。
 馬場はキッチンに入ると、味噌汁を火にかけて冷蔵庫を開けた。――よしよし、順調に「無い」。今日は半分が日常で、半分が日常ではなかった。冷蔵庫の中身はもともと少ないが、明日の朝にはなるべく空っぽにしておきたい。

「ええ天気なんやったら布団干しとくか」

 のしのしとリビングまで来てテレビと外を見た冴島が呟いた。しばらく家を空ける。布団を干すには丁度いい天候だった。

「俺がちょっと外拭いてから後で干しますよ」
「そうか?」
「ええ。そろそろお味噌汁が温まります。先にご飯にしましょう」

 冴島の茶碗に、ご飯をよそいながら良妻が言った。リビングのテーブルにせっせとおかずを並べていく。明太子、昨日作ったほうれん草のおひたし、ご飯、味噌汁。

「納豆いりますか?」
「いや……」

 馬場の茶碗と味噌汁も並んだところで、着席していた冴島がすくっと立ち上がった。

「? 梅干しですか?」
「ちゃう。箸忘れてんで馬場ちゃん」
「あ、すみません……言っていただければ取るのに」

 冴島の無骨な手に取られた二組の箸は、二人にと大島さんから貰ったものだった。

「さ、食べよか」
「そうですね。いただきます」
「いただきます」

 二人の朝食が始まった。



 §



 冴島より後に事務所へ向かった馬場は、理由をつけて夕方には帰宅していた。事情を知る城戸は「いいなあ、俺もこっそりついていこうかな」とからかっていたが、「いいですけど無視しますよ」と言い放った馬場になんでそんなに冷たいの?と泣いていた。留守を任されてくれるのだから、もう少し冗談に付き合ってあげても良かったかもしれないな、そう思ったのは日が落ちる前の我が家に着いたときだった。廊下に差し込む夕日を見て、急いでベランダの布団を取り込んでいく。もふ、と優しく放ると、斜陽に照らされたホコリが空気の中を泳いだ。太陽の中に、冴島さんの匂いがする。うっとりと暫しの間、二人の生活を慎重に思い起こす。人の温かみは恐ろしいほどの速さで馬場を侵食した。最初に噛み付いた自殺志願者は、今や死ぬのを恐れている。なるべく身軽に、としてきた人生で、とうとう手放したくないという意志を己の中に見つけてしまった。すべてのことを丁寧に広げていかないと、忘れてしまうのが怖いのだ。馬場にとって日常というものはこんなにも特別なものだった。

 冴島は丸一日仕事があって、今日はそんなに準備ができないとのことだった。昨日冴島が入れ始めていた彼のスーツケースに、タオルやら下着やらを詰めて確認していく。三人へのお土産はそれぞれ、自分のスーツケースに収めた。喜んでくれるといいんだけど。

 冴島が帰宅したのは、午後七時を過ぎたあたりだった。



 新しいゴミが出過ぎないように、晩御飯は簡素なものとなった。先日お土産を選ぶときに一緒に買ってしまったお酒を晩酌に加えてしまったのは、明日のことを楽しみに浮かれてしまったからだ。馬場は冷蔵庫を開いて、すっからかんの中身に満足そうな表情を浮かべる。明日は朝早くに出発だ。

「冴島さん、洗う服はもうありませんか」
「……おう、今日のはもう洗濯機入れといたわ」
「わかりました。じゃあもう洗っちゃいますね。お風呂いただきます」
「ごゆっくり。」

 冴島は既に湯浴みを済まし、テレビの前、ソファーの上で身体を丸めていた。馬場は洗面所で服をすべて脱ぐと、そのまま洗濯機のスイッチを入れる。駆動を始めたドラム缶を暫し全裸でぼうっと見つめると、ふと思い出したように馬場は浴場の戸を開けたのだった。