何も知らぬルールがあります

「こんにちは、お姉さん」
「あ、こんにちは」
そっと、隣に誰かが近付いて来たなと思うと、次の瞬間には優しく声をかけられて顔を上げる。そこにいるのは、やっぱり予想通りの人だ。中学生くらいの男の子。名前も知らない彼は、趣味の食べ歩きをしている時によく会う子、だ。
今日はちょっと変わったもの、というより、純粋に可愛い食べ物を人に贈りたいから、ということでこのお店に並んでいたのだけど。SNSでも紹介されていたこの店は、彼の琴線にも触れていたらしい。ちょっと意外だ。こういうところではなんとなく遭遇しないだろうと思っていたから。わたしは結構彼を気に入っている。というより、中学生の彼から見ればだいぶ年上なのだけど、懐いていると言ってもいいかもしれない。だから、素直に会えて嬉しいなあ、とにこにこと笑った。
と、そこで、いつもと違うな、ということに気付く。彼本人はいつも通りだけど、今日は一人ではないらしい。
ちらりと隣を見ると、見知らぬ男の子が立っている。長い髪を後ろに流した彼は背が高い。体格も良くて、いかにもスポーツをしています、といった風だ。大きいな。まあ、わたしの背が低いだけだけど。いつもの彼よりもずっと大きいから、余計にそう感じる。
「野坂さん、彼女は?」
「お姉さんだよ。食べ歩き仲間なんだ」
「あ、はい、どうも。食べ歩き仲間です」
はあ、と、ちょっと困惑した様子の返事が返ってくる。当然だ。名前名乗ってないし。でも一回も名乗りあった事ないから仕方がないのだ。
たぶん、背の高い彼は人に振り回されるのに慣れているのだろう。少し納得いってなさそうな顔をしながら、わたしに軽く頭を下げてきた。最近の子って礼儀正しい。
「そうなんですね。俺は……」
「待ってくれないか。ここにはルールがあるんだ」
「は?」
さっと手を出して制してきた彼に、背の高い男の子と一緒に首をかしげる。
ルール。ルールってなんだ。食べたら食レポするくらいしかルールらしいもの思い浮かばないんだけど。
「僕達はまだお互いに名乗っていない。それなのに、君だけ名乗るのは少しおかしいと思わないか?」
「それは……はい……?」
「というわけで、君は僕の名前を呼んではいけないし、僕より先にお姉さんに名乗るのも、お姉さんの名前を聞くのもダメだよ」
「あ、ここで自己紹介するとかじゃなくて秘密の方向なんだ」
真剣な顔して何を言い出すのかと思ったら、自己紹介しようとしてくれた彼を止めたかっただけらしい。というかこう、その、わたしも名前呼べないの、少し不便なのだから名乗ってほしかったんだけど。付き合いの長い彼よりも先にお友達の名前を聞くのも少し切ないかな、と思わないでもないから、まあいいとする。
というか、ついにこの謎に包まれた少年の名前を聞けるのかと思った。名乗り合うほどの仲じゃないと言われたらそれまでなんだけど。結構あちこちで遭遇してはアイスだのカレーだのなんだの食べてるので、少しだけ寂しいと思わないでもない。
というかさっき、彼が名前呼んでいるのを聞いていることは気付かなかったふりをしておいた方がいいということか。うん。
「検索すれば名前も公開可能なプロフィールも出て来てしまうという自信があるので」
「へえ。あ、そうか。二人とも同じ部活なんだね?」
「はい。なので、彼だけでも知ってしまえば、僕の名前も一緒に出て来てしまいます」
「し、調べたらいけないってルールがあったんだね……」
「別に調べてもいいですけど」
じっと、彼の静かな瞳がわたしを見つめる。真顔だ。なんだかどきどきする。あまり人に見つめられるのは得意じゃないんだけど、緊張していることがバレバレになるのは、年上として少し悔しいので、わたしもがんばって見つめ返す。
そうすれば、彼は大変なのはお姉さんですよ、と言ってにっこりと笑った。
「僕のことを下の名前で呼んでもらうことになります」
ひく、と少し頬が引きつってしまう。許して欲しい。だって、わたしは人の名前を呼ぶのが得意ではないのだ。以前、わたしがいくら年下とはいえ、男の子を下の名前で呼ぶのは恥ずかしいよ、と言ったことを覚えているから出てきた言葉だろう。どうしてそんな話題になったのか、わたしはいまいち覚えてないけど。女の子の友達だって、名前で呼ぶのは恥ずかしくてあだ名にしてるということを言って、じゃあ僕の名前も呼べないんですか、とちょっとからかわれたような記憶がある。
わたしはこう見えて恥ずかしがり屋だ。人見知りの自覚もある。こういうの、大人になったからって自然と治るわけじゃない。失恋ばかりで恋人もいたことがない。なので、目の前のこの格好いい中学生を下の名前で呼ぶのは、非常に耐えられない。
「……苗字でよくないです?」
「よくないです」
「よくないですかあ」
さっき、隣の男の子は苗字で呼んでるっぽかったんだけどなあ。線引きがよくわかんないけど、これは意地悪をしているわけではなさそうだし、そうすると単純に懐いてくれてるってことかな。
あんまり年上らしいことできてるわけじゃないけど、お姉さん、と呼んで慕ってくれるのは純粋に嬉しい。もしかしたらさっきのも、単純に彼より先にお友達が名前を知るのがおもしろくないという微笑ましいやきもちかもしれない。こんなかっこいい子に懐いてもらえるって奇跡みたいだな……いやでも、それはそれとして名前で呼ぶのは恥ずかしいのでどうにかして逃げたい。
「ええと……そろそろ列の先頭ですけど。お二人は何を食べますか?」
「え、あ、そうだ、まだ決めてなかった」
ナイスタイミング! と思いつつ、ひょこりと列から頭を出してメニュー表に目を凝らす。わたしはあくまでプレゼント用に買いに来たのであって、ここで食べるつもりはなかったんだけど、なんだかご一緒してもらえそうなので食べて行こう。
でも何も決めてなかったからなあ、と悩んでいると、同じように列から頭を出した彼も同じように唸った。
「何で悩んでるんですか? 今日は三種類選べますよ」
「あ、いいの? お友達は一口ずつもらうとか、そういうの大丈夫な人?」
「え、あ、あー……はい。俺は平気です。というか、そういうの普通にやるんですね……」
「残念だけど、あーん、はしないよ、西蔭」
「さすがに野坂さん相手でもしたくないです」
テンポよく会話を交わす二人に、普段から仲がいいんだろうなあ、と、なんだかほっこりとした気持ちになる。さすがに全員分のお金を出すほど余裕はないけど、せっかくだし、二人の分のお土産買って渡そうかな、なんて思いながらふにゃふにゃと笑った。


2019年11月執筆