17-2

「ここがイセリアだ」

ロイドくんと一緒に森を抜けて、長い坂道を降りた先に、イセリア村はある。
訪れたイセリアは、決して広い村ではない。数分と経たずに村の中を一周できるし、特にどこかが賑わっているわけでも、子供が多いわけでもない。マナ不足のせいもあって豊かな畑があるわけでもないし、これといった特徴のない、質素な村だ。
けれど、空気がのんびりとしているというか。争いが近くで起きていないせいか、わたしが最後に訪れた町の人よりも明るい表情をしているように見える。今日の暮らしを尊び、今日きっと素敵な未来が訪れることを夢見るような。どこか、安心しているような。
そんな空気が村の中には満ちていて、わたしも自然と肩の力が抜けるのを感じる。

「結構のんびりとしてるね」
「まあな。近くに牧場があるけど、牧場に関わらない代わりに向こうも関わらないって約束してるから安全なんだってさ」
「ああ、不可侵条約ってやつか」

イセリアの近く。ちょうど、ダイクさんの家からここに来る途中にある、ディザイアン人間牧場。物騒な名前のそこの話は、一応聞いている。どこからともなく集めてきた人間たちで何かを生産することで残り少ない貴重なマナを浪費している……とのことだけれど。実際に行ったことはないので、詳しいことはわからない。
そのディザイアンという、教科書にも載るくらい世界的に知られている「悪いハーフエルフ」のことも。その牧場がどんなところで、何を行っているところなのかも。何も知らない。いいや、知ってしまうほど近くに行ってはいけないと言われているのだ。
イセリアの人間は、ディザイアンによって管理されている人間牧場に一切かかわらない。絶対に近寄らない。
その代わり、ディザイアンもイセリアには手を出さない。
ディザイアン側の利点がよくわからないのだけれど、この村はそうして結ばれた不可視条約によって平穏が約束されているのだ。

「んでもって、ここが学校。村中の子供が集まってるんだぜ」
「あ、ナギサだ!」
「おはよう! もう大丈夫なの?」

説明を受けながら連れてきてもらった建物の窓から、コレットちゃんとジーニアスくんが顔を出して手を振っているのが見える。
この村では一番大きな一階建てのその建物が学校なのだろう。今日はお休みの日だと聞いてきたのだけれど、二人もわたしが来ることを聞いていたのか、出迎えてくれているらしい。
ちょっと照れくさく思いながら手を振り返せば、中から一人、綺麗な人が出てきた。マーテルさんも綺麗だったけど、あの安心するような綺麗さではなく、もっと落ち着いた女性の美しさを感じさせる、銀髪の女の人。
彼女はわたしを見て柔らかく目を細めると、ふ、と零れるように笑った。

「はじめまして。ジーニアスの姉で、ここの教師をしています。リフィル・セイジよ。元気になったみたいでよかった」
「天織なぎさです。この間は弟さんたちと一緒に助けていただいたみたいで、ありがとうございました」

その笑顔がとても綺麗で、わたしは思わず頬を赤くしながら頭を下げる。
この人がリフィルさん。ジーニアスくんのお姉さんで、学校の先生で、わたしの怪我を治療してくれた人。
なんだかとんでもない人にお世話になってしまった、とドキドキしながら学校の中に入る。どうやら教室は一つしかないようだ。リフィルさんに言われるまま、わたしはロイドくんと一緒に、コレットちゃんとジーニアスくんの隣に座った。

「ところで……ジーニアスから、あなたについては簡単に聞いているわ。こことは別の世界か、過去の時代からやってきたのかもしれないと。検証のために、簡単にあなたの知識を確認させてもらえるかしら」
「ええ? 俺、これからナギサを村の案内するつもりだったのに」
「確認は大事です。他の人にはとても言えない事情だし、この辺りでの最低限の常識くらいは知っていないと、困るのは彼女だわ。村の案内は後にしなさい」

そう言うなり、リフィルさんは黒板に何かを書き出す。
何か、と言っても、文字に決まっているのだけれど。この間見せてもらった教科書と同じ文字は、マーテルさんに習ったのとは違うようでなんだか少し見慣れない形をしていて、正直なんと書いてあるのか正確には読めない。形が近いあれと同じ意味かな、と思わないでもないけれど、自信はさっぱりない。

「ナギサ。これは読める?」
「ええと……い……伊勢志摩……?」
「ふむ。こちらは?」
「イセリア……ですね。普段はこの文字を使っていました」
「なるほど。では、あなたの世界の文字でイセリアと書いてみてくれる?」

言われるままに立ち上がって、黒板にもう忘れかけていた日本語でイセリアと記す。
よかった。さすがに二十三年の付き合いがあるから、まだ日本語、ちゃんと書ける。久しぶりに見た日本語はなんだか懐かしくて、妙にしっくりときた。最近はずっと別の文字を見ていたけれど、やっぱりわたしの言葉はこれだよなあ、なんて思って一人でうなずく。
並んだ四つの文字は、全部形が違くて、ちょっとだけ複雑な気持ち、だ。

「まったく違う形をしているし、本当に違う世界から来たと言われてもうなずけるわね……あなたが使っていたというこちらの文字は古代時代、勇者ミトスの時代に使われていたものよ。今はこちらの文字を使っているの。文法はもちろん、文字自体が変わってしまったものもあるわ」
「え。じゃあ、覚えたの無駄なのか……」
「無駄じゃない。考古学者としてはとても心強い」

ぐっと肩を掴んでそう言われる。なんだか声が怖く感じたが、まあ教職の人の前で勉強が無意味だったと言ったら当然だろう。
すみません、と謝ると、何故かジーニアスくんが咳払いをして、リフィルさんの手が離れた。

「以前に学んだのは文字だけかしら?」
「いいえ。文字だけ覚えても困ることが多かったので、地理や当時の情勢とか、社会常識的なことは一通り習いました」
「それは素晴らしい!」

もう一度掴まれた両肩が痛い。先生という学者の血でも騒いでいるんだろうか。楽しそうだねえ、とか、今日の先生なんか変だな、とか。そんな声が聞こえてきたけれど、ジーニアスくんの「それよりも一般常識の確認をしてあげなよ」という、ちょっと焦ったような声に、再び黒板へと向き直る。

その後。ロイドくんが完全に飽きて居眠りを始めるまでの間、歴史や一般常識に関するいくつかの確認を経てわかったのは、わたしは間違いなく、四千年以上前の世界からやってきた、ということだった。
古代カーラーン大戦の時代。
まだ、勇者ミトスが旅をする時代。
女神マーテルと勇者が出会う、前の時代。
文字と、知っている知識と。その他諸々から、わたしがこの世界の過去の時代からやってきたという推測は正しいだろう、と言葉に、わたしはちょっとだけ、肩を落とした。
四千年。そんな長い時間が過ぎたら、もうあの二人はどこにも生きていない。

「ナギサの時代では世界再生の儀式もなかったみたいね……伝承通りまだ女神が契約を……」
「世界再生?」
「あのね、マナの神子が行う儀式なの。私がそうなんだよ」

落ち込んでしまいそうなのを誤魔化すついでに、知らない単語について聞けば、コレットちゃんがほわほわと手を挙げる。
マナの神子、というのが何かわからないが、彼女は実はすごい役職を持っているらしい。……まだ、よくわからないけど。

「そうね。今度歴史の授業をするから、その時はあなたも参加するといいわ。現代の文字は……ジーニアス。あなたが教えてあげて」
「え? ボクが?」
「ダイクさんも仕事があるでしょうし、ロイドだけでは不安だもの。それに、コレットもロイドも、ナギサを構いたくてたまらないのでしょう? 勉強が済んだら、いくらでも遊んで構いません」

あなたたちって人懐っこいのよね、と肩をすくめるリフィルさんは、それでもどこか嬉しそうに見える。うまく言えないけど、誰とでも仲良くしている子供の姿を見ると、なんとなく嬉しくなるあの感覚を、今彼女も感じているのかもしれない。
少し戸惑うように、ちょっと自信なさそうに。少しだけ視線を落とすジーニアスくんに、コレットちゃんがさすがジーニアス、と笑っている。ロイドくんは、まだ寝ているけれど。たまに、ジーニアスはすごく頭がいいんだ、と家で話していたのを聞いていたから、きっと同じような反応をしただろう。
彼らは、とても素敵な子たちだ。とても優しくて、素敵な人。
わたしは改めて三人を見て、深くお辞儀をした。

「じゃあ……これからよろしくお願いします、みんな」