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ここは、どこだろう。
ぼんやりと、アンジェリカはそこに立ちつくす。
目の前に広がる街並みは、自分が知っているそれとは大きく違っていた。美しく整備されたレンガの家々に、楽しそうに談笑する人々。祭りでも開催するのか、窓から窓へと掛けられた旗や屋台が多く目につく。楽しそうに談笑する人々は変わった服を着て、あちらこちらから香る花やお菓子の匂いを全身にまとっている。ここはどこなのだろうと空を見上げる。知らない。知らない。こんな場所、アンジェリカは知らない。
ぐっと腕をひかれる感覚に意識を向けると、そこにいたのは見知らぬ男だった。小柄なアンジェリカと違い大きなその男の顔立ちは整っており、無表情だというのに美しさを感じさせる。綺麗な瞳で何かを訴えるようにまっすぐに見つめては、掴んだ腕に力がこもった。
何の用だと問いかけようとして、それより先に彼が言葉を発する。低い声で短い、言葉を。
「ようこそ、アリス。」
その声は、決して大きなものではなかった。むしろとても小さく、賑わっていたこの空間ではすれ違い様に聞こえるか聞こえないかというレベルだっただろう。
それなのに。それなのに。
賑わっていた人々が一斉に動きを止める。行っていたものすべてをやめて。談笑をやめて。笑顔を消して。そうして男に…アンジェリカに視線を集中させる。
その視線は一体何なのだろう。アンジェリカに集中するこの視線は。一体。畏怖するような、何かを嫌うような、焦っているような。こめられた意味を掴みきれない、そんな気味の悪い視線が全身を刺して、居心地の悪さと同時にどうしようもない恐怖を感じる。
逃げなければ。
直観的にそう思って、僅かに震える手を握る男の手を振り払おうとする。
逃げなければ。隠れなければ。今すぐ、ここから。
そう思うのに、男の手が離れない。強く握られた手が、離れない。
「…アリス?」
「アリス…」
「アリス?」
「ち、ちが…」
ぽつりぽつり。
囁くように呟くように確かめるようにその名前を呼ばれて、アンジェリカは自分がどうしようもなく焦るのを感じる。もちろんそれは自分の名前ではない。勘違いだ。それはわかっているのに、わかっているのに。
怖かった。
向けられる視線。言葉。掴まれた腕。何もかもが怖くて、ああ、早く逃げなければ。 ここから立ち去って、何事もなかったと日常に帰って、そうして。
そうしてどこに、帰ればよかっただろうか。
全身が痺れるような恐怖が体を支配して、上手く力は入らない。上手く動いてくれないからだでは頭では理解できる次の行動を、なんてできなくて、ただただ向けられる視線から、民衆から、なんとかして逃げようと体が震える。
わたしは何かしたのだろうかと恐くなって、わたしはこのまま死ぬのかとまで考えて怖くなる。
「助けて」と小さく掠れた叫び声は、どこにも届かないまま、届かないまま…彼女の上に、振りかざされた。
それは、衝撃だった。
痛みなどは感じない。感じられない。ただ突如として襲ってきた衝撃が彼女の体を打ちぬいて、簡単に突き飛ばす。あっさりと男の手が離れて、重い音を立てて地面を引きずるように落ちて、倒れて。ぐわりと意識が揺らいで、遠のいて、でもすぐに戻って。
これはなんだ。
体が動かないから、代わりに視線を向ける。自分の手が見えた。力なく落ちる、大して特徴があるわけでもない至って普通の少女の手。それの下に広がっていく赤い何かが見える。じわりと広がって、広がって、広がって、そこに赤を描いていく、赤黒い何かが。
じんわりと服が濡れて気持ち悪い。何があったのか理解できなくて、とにかく文句だけでも言ってやりたくて。でもそんな勇気はないなと思いながら視線を動かす。
いつの間にかアンジェリカを囲むように人だかりが出来ている。まだ動いている、と誰かが呟いて、アンジェリカから一定の距離を取ったまま、民衆がざわめく。
「アリスだ。」
「アリスだわ。」
「間違いなく、アリスだ。」
「殺さないと。」
「早く、何度でも。」
ざわめく声がする。たくさんのそれがアンジェリカを囲んで、だんだんと感じてきた痛みに呻くアンジェリカを見下ろす。
彼女がなんとか上体を起こせば、彼女を囲む彼らは何かを恐れるような眼差しを彼女に向けて、ああ、いつの間に持ってきたのだろう。いつの間に用意されたのだろう。賑やかだった街並みには不釣り合いな鈍器と、凶器と、刃。それらがアンジェリカに向けられ、振りかざされていた。
恐怖。それ以外に何が彼女の中身を埋めただろう。
明らかな殺意。それが正しいのだとばかりの態度。血走った眼は恐れているのか興奮しているのか。逃げたくても体が動かない。どうしたらいいの。わからない。わからない。ただ怒鳴るような声を、聞くだけ。
殺されるのを、待つだけ。
「アリスを殺せ!」
殺人アリス ‐亡きアリスのための鎮魂曲‐
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