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 ざあざあと降る雨が、やけにうるさく聞こえる。
 目の前は真っ暗なのに、耳につんざくその音だけが体の中に響くように鳴り続けている。

 それもそうか、だって自分は土砂降りの雨の中、傘もささずに立ち尽くしているのだから…そうぼんやりと考えて、アンジェリカは自分の足元を見た。
 多量の水を含んでぐずぐずになった地面はどこか赤黒く見えて気持ち悪い。さっきまでそこに広がっていた赤い水溜まりは、もう雨に溶けてしまった。
 まだ痛むような感覚が残る左手首を、アンジェリカはもう一度怠慢な仕草で持ち上げる。
 そこにもう傷はない。あれほど深く切ったというのに、簡単に塞がってしまった。
その事に、自分は本当に簡単には死ねなくなってしまったのだなと、ぼんやり、考える。
 落としていた刀を取って、中途半端に鞘と柄の間から見える刃に、今度は首をあててみる。
 冷たいそれに、普段なら感じられた自分の脈拍を感じられない。まるで死んでいるようだ。なら、首を切っても構わないのだろう。どうせ彼女の元になど行けず、また痛みだけが残るのだ。

 「やめろ!」

 ぐ、と力を込めた途端に、自分の手から刀が弾かれる。それと同時に聞こえた声に、アンジェリカは、ゆっくりとそちらを見た。

 「何をしているんだ。」

 強く咎めるような口調で言うのは、アンジェリカが『この世界』に迷い込んで、唯一自分を殺さなかった青年…ジーンだ。
 真っ直ぐに向けられた視線からついと目をそらして、飛んでいってしまった刀に目をやる。ジーンから護身用として受け取ったそれは自分には重すぎて、鞘から刀を抜く事さえままならない。それで繰り返し…一体何度だろうか。先程手首を切った時、死んだような目眩を感じたから、きっともう63回…いや、一回は見知らぬ人々に殺されたものだから、62回。
 アンジェリカは自分をその刃で深く傷付けた。
 何度も、殺した。

 「…アンジェリカ、頼む。頼むから、そうやって自分を傷付けるのは止めてくれ。」

 先程とは打って変わって泣きそうな表情で言うジーンを、アンジェリカは無表情に見つめる。
 彼の表情は、やけに自分に似ていた。自分が彼女に向けた表情と。彼も『自分』なのだから当然なのだが、それがやけに気持ち悪くてぐずりと消してしまいたくなって…アンジェリカはそれから目をそらすように彼から視線を外し、逃げるように駆けだした。
 もう何も見たくなかった。
 十万回もの苦痛に耐える自信など、どこにもないのだから。


 あの民衆に囲まれてしまった後。死を覚悟した瞬間だった。彼に出会ったのは。
 彼女と彼らの間に割り込むようにして入って、彼はアンジェリカの腕を取ると立ち止まることなく一気に町を走り抜けた。真っ黒な服を着たその男が、ゲームや漫画などでしか見たことのない剣をぶら下げているのに気付いて振り払おうともしたが、もう足もがくがくと震えていてそんな力はどこにも残っていなかった。
 ただ引かれるまま走って、町近くの森に入って、まだ走って。もういいかと彼が呟くまで、二人は走り続けた。途中で追いかけてくる音もしていたが、さすがにもう何も聞こえない。アンジェリカの荒くなった呼吸と木々が風に揺れる音。それだけだ。
 そしてその男は自分をジーンと名乗った。自分は。アンジェリカの『何かを好きだと思う感情』だと、名乗った。

 「アンジェリカ。ここは君の世界なんだ。」

 ここに在る物すべてがアンジェリカなのだと彼は言う。
 どういう意味だ、とうまく回らない頭で問えば、そのままだとしか返さない。ここはアンジェリカの世界。彼女が作り出した空想の世界。存在全てが自分の一部である世界。そんな物語を誰かから聞いた気がするなとしか返せなかった。混乱、していた。
 そしてその頃にはもう体の痛みもなくなっていた。そのことに気付いて、また彼女は混乱する。だって、そんな、おかしいじゃないか。自分は普通の、ただの少女なのだから。
 突き飛ばされて、たくさんの血を流して、意識だって一瞬とは言え遠のいたというのに、なぜ今、『全力疾走できた』のだろう。
 なぜこうもしっかりとした足取りで地に立っているのだろう。
 なぜ、あれほどに流れた血が、もう一滴も流れていないのだろう。
 彼は言った。ジーンは言った。ここは『アンジェリカの世界』だと。『空想の世界』なのだと。
 ここではアンジェリカは、簡単には死なない…死ねなくなってしまったと、穏やかで人当たりのいい微笑みを浮かべて優しく説明した。
 ならば自分を殺したのも守ったのも自分と言う事で、何故自分は死なないのだろうとか、何故沢山の自分達はアンジェリカを殺そうとするのかとか、問いたい事は沢山あった。そのどれもが結局、言葉にならなかったのだけど。
 ただ、確かに理解できたのは、ここが所謂空想の世界で、自分はここで十万回殺されなければ死なないのだ、という悪夢のような事実だけだった。


 そもそも自分は、何故こんな所にいるのか。
 自分はこんな森の中でもなければレンガの街並みではなく、普通の、若干田舎よりではあるが都会に住んでいた。いつものように学校に行って、いつものように彼女に会おうとして…そうして、自分の無力さに打ち拉がれ、まるでそれを狙っていたようなタイミングで切り裂き魔の被害にあっていたはずなのだ。
 自分の守りたいものを守れなかった。
 自分の大事な物を手から離してしまった。
 それが悲しくて悔しくて、そんな時だったのだ。
 確かに腹部を貫かれて、沢山の血が自分の中から流れていくのを感じていた。刺しどころが悪かったのか、自分の体温が一気に上がりそして一気に冷めていくのを感じた…はずなのに。
 次に目を開いた時には、あの場所に立っていた。
 あの場所で町を眺めて空を眺めて。そして、ああして、殺された。
 きっと殺されたのだ、あの後何度も自分を死ぬくらい傷つけて、きっと死んだのだと思われる感覚と同じものを感じたから。なんの躊躇もなく、確かめるように彼らはアンジェリカを殺したのだ。
 見知らぬ場所にいて、ゲームでしか見たことが無いような魔物と呼ぶに相応しいそれらに追われ、そして出会った人全員から殺意と武器をむけられて…いや、今のでは少し語弊があるだろう。
 たった一人だけ、アンジェリカを殺そうとはせず、むしろ助けた者がいる。
 それがジーンだ。
 黒い服を着た、穏やかな空気をまとった青年。腰にぶら下げた剣は使い込まれたようにしっくりと馴染んでいる。アンジェリカに『この世界』を説明して、あの民衆の中から連れ出してくれた人。アンジェリカに護身用だと刀を渡し、簡単に死ねないことを教えてくれた、人。
 最後は彼にとっては不本意だろうが、もうアンジェリカにはどうでもいいことだ。
 もう、どうでもいいこと、だ。




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