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「……ということで。彼女は旅をすることを選んだようです」
片膝をつき、首を垂れる謁見の姿勢のまま、フロスト・ノーヴェンはアインザッツでの報告を終える。わずかに指先が震えているのは緊張のせいだった。
皇帝の前に出るのは、四十年近く騎士として働いていれば数度は経験する。今も昔も、他の騎士の報告とあわせて謁見するのだから、二人きりというわけでもないのに。それでも、彼女の前に出ることは、いつまでたっても慣れる気がしない。
首を垂れる先。玉座に座るただ一人の人。静かに彼の報告を聞いていた、ヒトならざるヒトの王。
ミーナ・エル・ユークロニア。彼女の視線が未だに自分に注がれているのを感じて、ぐ、と顔が赤くなるのを必死にこらえた。
かの皇帝は、とても愛らしい容貌の少女だ。赤く長いリボンが揺れる様子は、その幼い見た目に非常に似合っている。白く透き通るような髪と肌と、大きく広がる黒い翼。どれだけの時間が過ぎようと、いつまでも幼いままの姿が、彼女が神秘の存在であることを示している。
それでいて己たちよりよほど力もあり、視野も広く、本来なら自分一人で完結できることを、我々に役割を与えるためにと仕事を与えてくれるのだから、フロストは彼女のために働くことをやめられない。明確な外敵など存在しないこの世界において、騎士団だなんて治安維持のために市民のなんでも屋でしかないのに、わざわざ志したのは彼女の力になりたいがためだった。
この国で唯一、特別な地位を持つ存在。騎士や領主といった称号も、四つの神秘に数えられる彼女の前では意味を持たない。だからこそ、こうして一介の騎士からの報告も直接聞いてくださるのだ。フロストの話を静かに聞いていた彼女は、ふうと肩をすくめると、困ったように眉尻を下げた。
「彼女も律儀ね。いちいち言わないで出ていけばいいのに」
「一時間でちゃんと帰ってきなさい、と約束をしておりましたから、顔を見せに来たのだと思います。いい子ですよ」
「そうね。どこぞの同胞にも見習ってもらいたいわ」
いくら、「彼女を守るように纏わりつく魔法の気配」があったからとはいえ、病み上がりの子供を外に出すなんて無責任だと怒られるかと思ったけれど。どうやらそこについてのお咎めはないらしい。こうして騎士にあらゆる仕事を割り振って頼っておきながら、常にあらゆる情報を「視て」いることの多い彼女のことだ。おそらく察してはいるのだろう。
さすがだ、と心の中で褒め称える言葉を繰り返していれば、ミーナはフロストから聞きたいことはこれで終わりだと判断したのだろう。ついと視線を動かして、隣で同じように待機している年若い騎士へと声をかけた。 「観測者は遺跡に入ったのね?」
「はい。その場に居合わせた神官の魔力を使って転移したようです」
その、まだ二十代前後であろう男は、秋帆を追いかけていた騎士だ。彼、シグ・ニクスが目の前で転移魔法を使った二人のことを報告すれば、ミーナはくるくるとリボンを指で弄って遊び始める。
これは彼女が何かを思案している時の癖だ。横から言葉を挟むだなんて不敬な真似はしない。フロストもシグも黙って彼女の言葉を待っていれば、やがてミーナは疲れたように肩をすくめて、ぽすりと玉座へともたれかかった。
「……まあ、そうよね。そういう行動になるのは当然よね」
彼女の言葉の真意を探ろうと、二人の騎士はちらりと目を見合わせる。もちろんお互いに答えを持っているはずがないことはわかっている。だが、何か思い当たることがあるか、彼女の言いたいことはわかったか、それを確認したかっただけだ。その結果わかったのは、お互いに同じことを考えただけで、答えはやっぱり誰も持っていない、ということだけだったけれど。
この言葉の意味を問いかけた方がいいのだろうか。それは、一介の騎士としては図々しすぎるのではないだろうか。思案しているうちに、ミーナの中ではすっかりと切り替えが終わってしまったらしい。仕方ないわねえ、と再び声を零すと、よいしょ、と背筋を伸ばした。

「帝都は絶対に安全のつもりだったけど、余計なことをしてくれちゃって。連絡先くらい伝えておきなさいよ、もう……でもまあ、メメディエムに異変が起きないことがわかっただけでもよかったかしら」
「そうなのですか?」
「ええ。あの地に、異変を起こすための力はもうない。それはそれで困るんだけどね」
やんなっちゃう、と吐かれたため息を受け止めることはできない。
できるのは、東に存在するメメディエムでは異変は起きない、という彼女の言葉を信じることだけだ。異変の原因を突き止めることができたのだろうかと思わず顔を上げると、ミーナは弄っていたリボンから興味をなくしたように手から滑り落して、これからの話をしましょうと目を閉じた。
「……今後の避難先にはメメディエムも候補に入れるわ。シグ。リラに頼んであそこの領主にもそう連絡しといて。同時にあそこの大精霊の封印を確認して頂戴」
「皇帝陛下の仰せのままに」
「観測者についてはフロストに引き継いでもらうわ。あれはアーロスの娘と契約をした。あの子から目を離したくはないし、ちょうどいい……そのついでに、魂を集めているという男のことも追ってちょうだい。あれは本人ではないけれど、アネストの関係者よ。数少ない同胞としては、放っておけないわ」
「皇帝陛下の仰せのままに」
「ごめんなさいね、一気に任せることになってしまって」
ふ、と眉を下げて笑う姿は、幼い少女というよりも永くこの地を守る母のような優しさを感じる。こういう時に、彼女はどこまでも己とは違う生き物だと実感した。同時に心からヒトを愛おしく思っていることも、この地に住まう者たちを大切に思っていることも伝わってきて、フロストは彼女のために働けることをうれしく思ってしまうのだ。
なによりも敬愛する皇帝からの勅命。光栄には思っても面倒には思わない。そう伝える様にフロストも笑みと共に返事をすれば、彼女はまた、嬉しそうに頬をほころばせた。
「期待しているわ」


(緊張したあ……)
皇帝の前から下がり、廊下を数歩ほど歩いてから、はあっと息を吐く。体がぽかぽかと熱い。どきどきと脈打つ心臓の理由は、ただの緊張だけではない。いくら慣れないとは言っても、もう四十年も騎士として働いていればそれなりに落ち着いた行動ができるものだ。
それなのにいつまでも、いつまでも。ミーナの前に出るたびに、声を聴くたびに、彼女からの命令を聞くたびに、こうして胸が騒いで仕方がないのは、ただ単純に。フロストがミーナのことを大好きでたまらないから、である。
(だ、大丈夫だったかな、変なこと言ったりしなかった? 身だしなみはもちろん気にしたけど、途中緊張しすぎて変なこと言ったかもしれない。うう〜いつまでも子供みたいだと思われたらどうしよう!)
幼い頃にお姿を拝見したあの日からずっと姿の変わらない皇帝に、フロストはずっと恋をしている。別に個人的に距離を詰めようとは思っていないのだから、恋というよりは敬愛やファン心理に近いとは思うけれど。彼女のために生きたくて、七歳になったばかりのころに騎士になることを選んだくらいだ。それから三年、必死になって学んで入団した時から褪せることのない、年季の入ったこの気持ちは、「恋」と呼んでしまった方がいっそ都合がよくて。細かい感情の説明がしやすいから、恋をしている、ということにしている。
もちろん仲間たちには隠しているつもりなのだが、正直バレバレだということもわかっている。ミーナに関する情報があれば皆教えてくれるし、彼女が公の場に現れるときは一番近くで護衛をさせてくれることも多い。完全に個人的な事情で立ち位置を決めるのもどうかと思うのだが、それは明確な外敵が存在しないがゆえの能天気さもあるのだろう。平和で実にいい、ということにして、フロストは自分が生きた四十七年のうちのほとんどをミーナに捧げていた。
そんな、敬愛してやまないミーナに「期待している」と言われたのだ。時空の観測者という自分には馴染みのない、おそらく神秘にまつわる存在の監視することも、病弱な少女の動向を追うことも、魂を奪う事件を起こす男を追いかけることも、なんでもできる。
(うっ……好き……いっぱい命令してもらえた……頑張ろう……)
彼女の姿を思い描いてはぽやぽやと暖かなもので満たされる胸に手を当てて、ゆるりと頬をゆるめる。だらしないと言われてもいい。こうして思い起こすことが、彼にとって至福の時であった。

「ノーヴェン」
後ろから声を駆けられて、慌てて表情を引き締める。いくらバレバレとはいえ、だらしなくゆるんだ顔なんて人に見せられない。しかも声をかけてきたのは先ほども一緒に謁見した騎士団の後輩だ。自分に憧れて入ったのだと言われたこともあるのだから、なるべくしゃんとした姿を見せたい。
その一心でなんとか表情を取り繕うと、フロストはよし、と少しだけ気合を入れて後ろを振り返った。
「どうしたの、シグちゃん」
「その呼び方はやめてくれ……やめてください。いつまでも子ども扱いしすぎだ」
ぐ、と眉を寄せる様子は、きっと男前だとフロストは思う。目の前の後輩、シグははた目から見ても整った顔をしていて、巷で「憧れの騎士」と呼ばれてるのも納得だ。
そう思ったところで、フロストからすれば二十も年下の子供であることは変わらないし、まだ小さいうちから気にかけたこともあって、いつまでも小さな子供のように思ってしまう心境に変化が訪れることはないのだけれど。
「ごめんね、おじさんから見れば若いことに違いないから、つい。それで、どうしたんだい?」
フロストにあまり直す気がないことは、きっと彼もわかっているのだろう。むすりとしかめた表情だって、ただの照れているだけだということもわかっている。少し和む気持ちになりながら要件を促せば、んん、と咳払いをしてから、その美しい顔で見上げてきた。
「あなたに任された仕事はさすがに多い。リラをあなたにつけた方がいいのではないかと思ったのだ」
「え、いいよ別に。彼女、妹ちゃんと一緒にいたいんでしょ?」
「だが……」
「シグはだぁいすきなノーヴェン先輩のことが心配なのよお」
くすくすと耳に心地よい声がして、フロストは視線を床に落とす。この声の主が目の前ではなく、シグの影の中に潜んでいることを知っての行動だった。
そしてその予想通り。シグの足元にある影がぐにゃりと揺らいで、ヒト型のシルエットが立ち上る。真っ黒だったそれが次第に色を宿し、女性の形で実態を得た。首元で綺麗に切りそろえられた髪を揺らして、にっこりと笑みを浮かべながら左目を前髪で隠すその女性の背中には、ミーナの翼と似たような黒い翼が広がっている。
豊かな胸を大きく露出した蠱惑的な彼女はリラ。ここ数十年で実体化するほどの力を手に入れたばかりの、ヒトならざる者にとってはまだ年若い精霊であった。
彼女はくふりと笑みを零すと、そのすらりと長い腕をシグの首へと回す。しだれかかるように彼に抱き着いて、いたずらっぽく目を細めた。

「んふふ。心配すぎて、わたくしを護衛にしようとするなんて。すごぉく後輩に慕われているわよねえ」
「こんにちは、リラ。相変わらず魅惑的だね」
「はしたないんだ、これは」
「いいじゃなぁい。可愛いでしょう?」
ぎゅうっと体を丸めてシグを抱きしめた後、するりと空を泳いでフロストにも抱き着いてくる。妖艶な女性、というよりも、ヒトとくっつくのが好きな小さな子供のように感じられて頭を撫でれば、そういうところよお、と彼女は笑った。
「聞いてくださる? 彼ったら、いっつもあなたのお話ばかりするの。うちの妹が妬いてしまうくらいなのよ」
「リラ」
「あなたのどこがかっこいいとか、憧れているとか、自分も負けないくらい強くなりたいとか、いーっつも飽きることなく語ってるの」
「リラ!」
「でもそんなすごい人だからこそ、たまに可愛いところがあるのがグっとくるとか」
「リル、あの姉を止めてくれ!」
悲鳴のように叫んだシグの言葉に応えて、再び彼の影が揺れる。先ほどのリラと同じように立ち上った影は、今度は長い髪の少女の形を作った。……相変わらず露出の多い、豊かな体をしているのは、彼女もリラと同じ存在で、姉妹関係にあるのが理由だろう。
リルと呼ばれたその精霊は、困ったように眉を下げながら、姉にぎゅうっと抱き着いた手でその口を塞ぐ。実にわかりやすく物理的で単純な口の塞ぎ方である。リラもそれを振り解いてまで言葉を続けるつもりはないだろう。あらあら、と笑うと、リルを抱き寄せながらさりげなく手を離させた。
「あらやだ、わたくしが妹を愛していることを知ってこの仕打ち」
「余計なことばかり言うからだろう」
「でもシグがノーヴェンを大好きなのは事実……」
「リルまで……」
仲の良い兄弟のように、気の知れた仲間として会話をする三人の姿はそう珍しいものではない。何せ妹のリルとシグは精霊とその契約者だ。自然と行動をともにすることになるし、妹の契約書だからと姉のリラが付きまとうのもそうおかしなことではなかった。そしてこの後輩が自分をよく尊敬してくれていることもとっくに知っているので、このからかいも別に普段通りだ。便乗してからかうこともしなければ、初めて聞いたよと照れることもない。ただ、精霊とその契約者として友好な関係を築けていることに頬を緩めるだけだ。
なにせ精霊とは、かつて存在した神秘の生き物たちの魔力の残滓から生まれる存在であるという教えの通りに、彼女たちはミーナの魔力から生まれ落ちた存在だ。当然、彼女によく懐いている賑やかな彼女たちのことを、フロストは可愛い姫君のようにしか見えない。
そもそもの話、フロストは精霊とその契約者の関係というものについて、あまり詳しくはない。フロストは騎士にしては攻撃的な魔法を苦手としていて、騎士にしておくにはもったいないほどに回復の魔法を使えると自負しているけれど、当事者ではないのであまり詳しくない。この世界に密接に結びついている精霊にとって、その存在はとても重要なものであるらしい、と、ぼんやりとした理解しかしてあげることができない。
だから、まあ。彼らが今日も仲良しという事実と、二人そろって豊かな肢体を隠すつもりがあまりない露出の高い服を着ているのを見て、年頃のシグは大変ではないのかなあ、と、明後日の方向に心配をすることしかできないのである。
「それにしても君たちのやり取り、目のやり場に困るな〜。精霊って露出多いのが好きなの?」
「どうかしら……わたくしたち、本来は不定形だし、他の精霊とも交流ないし……? でもどうせなら可愛いのがいいって思って」
「シグが言うなら着替える……」
「言っても翌日にはそれだろう」
「思春期にはつらいね……」
「そんな目で見ないでくれ」
あまり触れられたくはないことなのだろう。必死に咳払いを繰り返すシグに、三人はふふ、と笑って口を閉じた。

「とにかく! 身を守る術はいくらあってもいいだろう」
「過保護だなあ。俺、君より三十くらい年上なのに……」
「茶化さないでください。あなたが素晴らしい人物であることももちろん知っている。そのうえで提案している」
あまりにも真剣な様子でそう進言してくるので、フロストも困ってしまう。確かにリルと違って、リラはシグと契約しているわけではない。誰とも契約をしていない、自由な存在だ。彼女は己の主人であるミーナと、大切な妹の契約者のお願いならば確かに聞いてくれる。願えばフロストのことを守ってくれるだろう。
正直なところ、そんなに過保護にされても困る、というのが本音だ。彼と比べてそれなりに経験を積んできているし、心配されるほど弱いわけでもない。彼から引き継ぐ形になる「時空の観測者」とやらを警戒しているのかもしれないが、彼女はあの、ファルファッラと契約をしたと聞いた。あの病弱ながら意志の強さを感じさせる少女が選んだのだ。そう、悪いことにはならないだろうと思っている。
それでも話を聞いてやるべきか。少し悩んでから、くしゃりと彼の頭を撫でる。そうすれば、シグは緊張したように身を固めて、それまで向けていた強い視線を白黒させるから。今がチャンスだと、少し意地悪な大人の気持ちでほほ笑んだ。
「気持ちはありがたいけど、大丈夫だよ。彼女たちは「君」に力を貸してくれているんだ。俺のことは気にしないで」
「しかし……」
「監視ばっかりで、危ない仕事でもないしね」
でも情報はちゃんと引継ぎしてね、と茶目っ気を含んで片目を閉じれば、シグはしばらく無言で顔をしかめた後、深く息を吐いた。


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