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「い、行くよ……み、見ててね、本当にちゃんと見ててね」
「わかってるよ。絶対に見てる。ほら、頑張って!」
息を吸って、吐いて。大きく深呼吸。それからぐっと力を込めて。あたしはアーリィの隣から離れると、たったっと軽い音を立てて地面を蹴った。
一歩、二歩。数歩前へ進んで、ぐるりと後ろを振り返って。そしてもう一度同じように、今度はアーリィのところへ帰るために地面を蹴る。
そうして無事に彼のところへ帰ってきて。彼の手を握って。あたしは、どきどきと興奮する心臓のままにアーリィを見上げた。
「は、はし……走ってた!?」
「早歩きだった!」
「早歩きできてた!?」
ぱあっと表情が明るくなるのが自分でもわかる。きっと顔も赤い。何せ息が乱れている。でも苦しくない。苦しくないのだ。あたしは今、少しだけ走ったのに。いや、実際には早歩きだったらしいけれど。間違いなくいつもよりも早いペースで歩いたのに、あたしはまだきちんと、地面に自分の足で立っている。
「す、すごい、くらくらしない。胸も足も痛くない。倒れてない!」
「すごいじゃないか!」
わしわしと頭を撫でられて、きゃあきゃあとあたしも騒ぐ。大げさだけど大げさじゃない。こんなの大事件だ。だってあたし、走れたことって、なかったもの!
こうしてあたしが早歩きを成功させることができたのは、秋帆さんとの契約の影響だ。契約といってもそれを行ったのは一瞬だったから、何が変わったのかよくわからなかったけれど。何か知らないものが体の中に入ってくる感じがして、少しだけ寝込んだりはしただけで、あたしは数日もすればすっきりと目を覚ますようになって。そしてこれ。おおむね良好。ううん、絶好調。こんなに歩き回れるなんて人生で初めてだ。
走り回るくらいできますよと秋帆さんが言っていたことを疑っていたわけじゃないけれど、実際に経験したら、感動してしまって。あたしはなんだか泣いてしまいそうになりながら、この一連の流れを隣でじっと見ていた秋帆さんに笑いかけた。
「ありがとう、秋帆さん」
「いえ……」
ぎこちなく笑みを浮かべる秋帆さんは、出会った頃と特に何も変わらない。果たして契約とやらが彼女にどんな影響を与えたのかわからないままだけど、説明されたところで理解が追い付かない自信もあるので気付かないことにさせてもらう。また今度、機会があれば、ぜひとも知りたいと思うけれど。
あたしが寝込んでいたり、準備やら何やらで、もうあれから一週間経ってしまったから、これ以上あたしのために時間を割いてもらうのが申し訳ない、という気持ちもある。今こうしてのんびりとしているのは、馬車の時間までの時間潰しなので、カウントはしないでほしい。
「でもよかった。異変は起きているらしいけど、まだティールオン領には入れるみたいで。最初の目的地はそこでいいんだよね?」
「はい。ティールオンを出発地点に、四つの領地の四つの大精霊の封印を目指します」
安心したようにつぶやくアーリィの言葉に応える様に、ふわりと風が髪を揺らす。秋帆さんがうなずいた通り、これから馬車に乗って移動する先は、ユークロニア大陸の西に位置する領地、ティールオン領だ。
白い花が咲く常若の地。風の生まれる地。大きな花畑と風車が有名なティールオンのことは、いつだかに読んだ地理の本と感光雑誌の情報しかあたしは知らない。
かなり広い土地を持っているけれど、そのほとんどが農耕地であるためか、他の地のように明確な町や村は持っていない。それでも農作物の輸送のためか港も存在していて、なんとなく、この農作物を育てるのは自分達だと主張する派閥があって。観光地として売り出すつもりがあるのかないのかわからない、のんびりとした気風を持つ土地、らしい。ここでよく採れる薬草を目当てに、よくパパが商隊を呼び止めては買い付けていたのを見たことがある。
そして。あたしは知らなかったことだけれど、今、各領地ではあたしの住んでいた村と似たような「異変」と呼ばれる現象が発生していて、それが外部に広がらないよう、移動を閉鎖している場所がほとんどである、らしい。
とはいえティールオンも、閉鎖されていないだけで長居は推奨されていない。何せ農作物も薬草もここで育てられているのだ。閉鎖してしまった場合の世界への影響は大きい。運よく起きている異変も「滞在時間」によって症状が変わるらしいので、そういう意味では運がよかった、のかもしれない。何が起きているのかわからないので、本当によかったのかは、まだ子供のあたしには全然わからないけれど。
「異変って、どんなことが起きてるの?」
「ええと……ボクが聞いた限りでは、時間を失うとかなんとか……秋帆……」
「知らないと言えばいいだけではないですか」
「その通りです」
秋帆さんの冷静な言葉に、アーリィはがっくりとうなだれる。たぶん、あたしの質問にはなるべく答えたいと思ってくれての行動なのだとは思うけれど。隣にいる秋帆さんの方がずっと詳しい専門家なので、強がりは簡単にばれてしまうのだ。
無理させてごめんねと思いつつ。でもこれを指摘するともっと恥ずかしくなってしまうというのは、パパにからかわれていたママを見て知っている。だから気付かなかったふりをしておくのも大事なことだと言っていたパパを思い出しながら、あたしはとりあえず黙って笑った。
「まず、各地で起きている異変というのは、あの土地に封印されている大精霊の魔力が暴走していることを言います」
近くの適当な段差に腰かけながら、秋帆さんが言葉を続ける。
大精霊の封印、とは、常春の時代の神話の中に出てくる女神の封印のことだ。家で本を読むしかできなかった時に読んだことがある。パパは決して信仰深い人ではなかったけれど、精霊教会の教義や四つの神秘について興味が強かったらしくて、そういう本もたくさんあった。……正直、あたしはどれを読んでも全然ピンとこなかったし、へーって何も考えずに読んだから登場人物とかもあんまり覚えてない、概要だけ知ってる、という状態だったのだけど。
魔法や神秘の専門知識とは違って、あたしでも知ってる雑学や一般常識の話が出てきて安心しつつ、本を読む機会をくれたパパに心の中でお礼を言っておいた。
「女神の封印が行われたのは、この世界の時間ではおよそ五千年前。さすがにそれだけ時間が立てば封印だって弱まっていく。何せ、あれは私と四属性の大精霊の力を使ったものなのに、その誰にも同意を得ずに編まれたものですから」
「そんなことできるの?」
「特に力の強い人たちでしたから……それに、四人がかりで袋叩きにされては、全盛期の私だってさすがに負けますよ」
苦い顔をする秋帆さんは、きっとその「服叩きにされた」時のことを思い出しているのだろう。こういう時に、本当に秋帆さんってヒトじゃなくて、あたしたちと違う時間を生きている、神話の時代に出てきた時空の観測者なんだなあと実感する。あと、苦い顔は全然ぎこちなくないのは、ちょっとだけ寂しいなと思った。
「女神の封印に必要なのは、属性の違う強い力と時空の力。これを永久的に供給し続けることで檻を作る。けれどこの封印のために自分たちも巻き添えになって眠るわけにはいかない。ということで、適当に力の強い精霊を使うことにしたのです」
精霊の魔法には、四つの属性がある。
土。水。火。風。神秘の生き物が落としたこの四つの属性の魔力から精霊たちは生まれてきて、今も世界に祝福を与えてくれる精霊たちは、基本的にこの四つのどれかの属性を司っているらしい。というのは、魔法を使えないあたしでも知っていることだ。
そしてこれはあたしの知らなかった話。神秘の生き物は、決してこの四属性だけを操っていたわけではないらしい。たとえば四つの神秘だって、雷、氷、光、闇、の四つの属性をそれぞれ得意としていたのだそうだ。
雷は風と火に、氷は水と土に、光は土と火に、闇は火と風に。神秘の手から離れて世界に溶け込む際、分裂して流れ出して、それが精霊として生まれ変わった、のだとか、なんとか。
ようは精霊やアーリィたちが使う属性と、神秘が使う属性は違うもので。精霊の力を組み合わせればすべての属性をカバーできるから、精霊を封印に使った方がいい、という結論になったということである。
「自分の魔力を、第三者に勝手に使用されるのはとても苦しいです」
「そうだね」
ぶるりと体を震わせながら同意していたアーリィは、アインザッツで秋帆さんと二人で行動した時に、その「魔力を勝手に使われる」というのを経験したらしい。彼にしては珍しいくらいにげんなりとした顔で、すごく気持ち悪くて大変だったと言っていたから、今もその時のことを思い出しているのだろう。
その顔を見ていると、二人で地価の遺跡に転移してちょっとだけ冒険したのだと後で聞いて、ほんの少しだけ羨ましいと思ったのは内緒にしないといけないなと思った。
「さらに、時間をかけて大精霊が力を取り戻して壊したりしないよう、大精霊にとって不利な力が満ちている場所に封印されています」
四本、秋帆さんの指が立てられる。四つの属性。四つの大精霊。そして彼らがそれぞれ封印されているという四つの領地を示すための指だった。一本ずつ指を折りながら、彼女は自分の目的地でもある各領地の名前を連ねる。
火の大精霊が封印されているのは、水の力に満ちた土地であるマグメリア領。帝都から見て北に存在し、清らかな水と引き換えに常に低い気温にさらされた結果、常に雪が積もっているらしい。アーリィの故郷でもある場所だ。
水の大精霊が封印されているのは、土の力に満ちた土地であるエリアカナヤ領。帝都から見て東に存在する領地だけど、ここはあたしが生まれるよりずっと昔に異変が起きて、空間の位相がズレたとかなんとかで、もう誰も訪れることはできなくなってしまった場所だ。紅葉がとても美しい土地だったと聞いている。今は、故郷を捨てられない人たちが、異変と共に消えてしまった陸を懐かしむように船や木材を集めて海上に集落を作って暮らしているらしい。
風の大精霊が封印されているのは、火の力に満ちた土地であるメメディエム領。帝都から見て南に存在し、太陽に愛されたような気候と、近くの火山を使用した温泉が人気の観光地だ。
そして、土の大精霊が封印されているのが、これからの目的地であり、風の力に満ちた土地であるティールオン領。帝都から見て東に存在し、かつあたしが住んでいた村からもそんなに遠くはない場所だ。
これがイコール、属性の相性、というものに通じるらしいけれど。どうしてわざわざ条件を付けて封印の場所を選んだのかは、残念ながらあたしにはあんまりピンときていない。もちろん、魔法使いであるアーリィにはすぐに納得できたようなので、初歩の初歩の考え方が使用されているのだろう。
「そっか……もともと魔力量を上回るような使い方をしたり、適性のない属性の魔法を使うのが体によくないのと同じ理由かい?」
「はい。苦しい思いをさせられた封印が弱まったと思ったら、自分が苦手な魔力が満ちている。寝起きの頭ではパニックになって当然です」
「それで、暴走して異変が起きる、ということか」
聞きかじった程度の理解で申し訳ないけれど、ようするに、魔力を勝手に使われたせいですごーく夢見が悪いのに、無理やり寝かしつけられた場所は寝苦しくてたまらなくって、たまたま夜中に起きたら悪条件を全部自覚してしまってぐったりしてしまう……という、あの感覚に近いということ、なのだろうか。もっと苦しいのかもしれない。そしたら、上手に呼吸できなくて起きた時みたいな寝苦しさかな。横になっているとさらに眠れなくなって、夜だけが終わらなくて、ずっと気持ち悪いあの感覚かもしれない。
どちらにせよすごく嫌だな、とだけ思っていれば、その気持ちが素直に顔に出てしまったのだろう。それを「知らない難しい話をされて困っている」と受け取ったらしいアーリィが苦笑しながらええとね、と嚙み砕いてくれた。
「魔法でもそうでなくても、自分に合わないことをして無理をするのは危ないってことかな」
「……すみません。噛み砕いた説明が苦手で」
「う、ううん。これから勉強するね!」
たぶん、秋帆さんと話をするうえで。というか、彼女について行動するうえで、魔法や精霊、神話に対する一定以上の知識は必須条件になるのだろう。あたしは魔法使いたちの一般常識を知らないので、アーリィほどすぐに理解ができない。
知らない、とは、ここまで悔しいことなのだ。改めて、あたしはあたしの知らないことを追いかけて全部納得できるように知ろう、と心に決めた。
「すみません」
そしてこの、今にも死にそうな顔をしての謝罪は、たぶん、他にも話していないことが多いことに対しての謝罪だ。秋帆さんは聞けばわりと答えてくれるけれど、知らなくてもいいと彼女が判断したり、上手に話せないなと思ったら口を閉じてしまうということを、この一週間程度であたしたちは知った。
適当な伝わり方をするくらいなら黙るという選択肢を選ぶ彼女は、そのくせ、その度に死にそうな顔で謝罪をするのだ。
そのことに対して、どう反応するのが正しいのか、もちろんあたしたちは知らない。まだお互いのことに関して手探りの状態なのだ。ただ、彼女には言えないことがたくさんある。それだけを知っていて、それを問いただす術は知らないから、そっか、と。その謝罪の意味に気付かないふりをするしかできない。
今回もそうしてただ小さく首をかしげてみせれば、彼女は少しだけ呼吸が楽になった、という様子で静かに息を吐く。そうして再び会話を始める頃には、秋帆さんはまた、無表情にも思えるくらいに静かな表情に戻るのだ。
「……ティールオンに向かうのは移動しやすい、というのもありますが。あそこにはアネストの伝承が伝わっています。ファルさんたちの目的がディストという人である以上、最初に向かうのはここである方がいいと思ってのことです」
「四つの神秘、だっけ」
「はい。そちらの調査についてはお任せします。私は精霊を封印から解放して、その後改めて封印を新しく作り直しますので」
そちらはお任せしますね、と。非戦闘員でできることも少ないあたしでもできそうなことを提案してもらえて、少しだけほっとする。いや、知らない人とお話しすることって全然ないから、上手にできるかはわからないけれど。そこはこれから頑張ってお勉強だ。
とにかく、秋帆さんは秋帆さんの目的のために。あたしとアーリィもやりたいことをやるためにティールオンに行くのだ。
「私の異変を収めたいという目的のためには、精霊の開放が最優先になりますから、どうしてもそれに集中しなければいけません。けれどまずは一番苦しめる原因になっているそれを解けば、時間はかかっても、事態は収束していくはずです」
「一気に直るものではないのかい?」
「そこまでは、さすがに……契約者が現れれば、早まるとは思いますが。それでもすぐに全部元通りに、にはならないと思います」
「契約者って、あたしと秋帆さんみたいな?」
「はい。……精霊にとって、私よりも契約者がいる意味は大きくなります。もともと、彼らはその発生も性質も他者の存在に依存する傾向がありますから。契約者という形で彼らをしっかりと繋ぎとめる存在が必要になるんです」
すでに資格を持っている人がいるならまだしも、さすがに一から候補者を選んで連れていくというところまで面倒は見れない、という秋帆さんの目的は、あくまで「異変の原因を取り除く」ということだけなのだろう。
それなら、これ以上難しい話は出てこなさそうなので、あたしは少しだけほっとしつつ。じゃあ、これから行くティールオンではどんな異変があるのと問いかける。時間を失うってどういうことなの、と。秋帆さんは吹き付ける風にそっと目を細めながら、あたしの乱れた前髪をそっと直してくれた。
「あの土地の力は風。封印されているのは土の大精霊。時間を失うというのは、積み重ねてきた記憶を失うということ。かの地に足を止めた者は、花が風に散らされるように、じっくりと記憶を失っていく状況にあります」