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「名前を呼ばれると、ここにいていいと認められたように私は感じるの」
紅茶の入ったカップを優雅に傾けて、おねーさんがそうほほ笑む。
相変わらず綺麗なその人は、見た目だけでなく声も美しかった。突然意識を浮上させたような、目を覚ましたばかりのような、夢うつつなあたしには、彼女が何を語ろうとしているのか、よくわからないけれど。でも、この声は聞いていたいなあ、と思うような、不思議な心地だった。
「そう、だから、あの人も名前を呼ばれることが好きだった。いつまでも恥ずかしそうにしているのがたまらないのよ、と。何度も聞かされたわ」
だから大切なの、と上品に笑って。それから、ふとその美しい翡翠の瞳を陰らせて。ことりと置いたカップの音が、なんだか寂しく部屋に響く。
「そんな名前をね、思い出せないの」
す、と手を伸ばした先に、いつの間にか花瓶が飾られている。このテーブルに花瓶なんてあったかなと思うけれど、そこに生けられた白くて小ぶりの花が可愛らしかったから、そんな疑問はまた忘れてしまった。
「私にとっては大切だったのに。だって、大好きなあの二人にとって、特別な名前をもらっていたのよ。それが愛おしかった。何よりも誇りを持っていたはずなのに。目を覚ましたら夢を忘れるみたいに。季節が過ぎれば花が散るみたいに、消えていく」
指先が花びらに触れれば、はらりと落ちる。それを目で追えば、テーブルに乗る前に姿を消してしまうことに気付いて、あれ、と思った。
そんな、夢みたいなこと。
あれ。これ、夢、だっけ。
「でもこれだけは覚えているわ。私は、守りたいものがあった。この嵐の中でも、抱きしめていたものがあった。……この花を、散らしてはいけないと思った」
くらくらと揺れる視界の中で、綺麗な声だけが鮮明に響く。これは夢なんだなあと実感して、なら起きなきゃと思って。でも、これだけは。これだけは、聞きたくて、口を開いた。
「……おねーさんの、名前って、」


「馬車は……つらいね……」
おえ、と。言葉と一緒に何かが出そうになって、あたしは一生懸命につばを飲み込む。こんなのただの気休めで、いくら飲み込んだって込み上げてくる吐き気が緩和されることはないのだけど。
それでも、一日がかりで移動した馬車から降りてしまった以上、この場で倒れるわけにもしゃがみ込むわけにもいかない。アーリィにもたれかかりながら、あたしは必死にそれと戦う。……つまるところ、多方面からの期待通り、馬車酔いしたのだ。
「単純に乗り物酔いしやすいんだね」
「これはもう、慣れてもらうしか方法がないですね……」
馬車に乗るのは人生で初めてだった。当然である。普段から貧弱なあたしが乗り物での移動に耐えられるとは思っていなかったので挑戦だってしなかった。でもほら、さっき、小走りできたし。結構大丈夫かも、とか、思っていた。だめだった。
ふらふらと足元は覚束ないし、吐き気が止まらなくて頭痛もする。遠目からでも真っ青になっているのはわかるらしく、馬車から降りるときにひどく心配されたものだ。
ティールオンに到着した第一歩。記念すべきそれを、喜ぶ余裕なんてない。入口傍の木の下までなんとか体を支えてもらって移動して、ゆっくりと座り込む。背中をさすってくれる手は優しいけれど、さっそく足手まといになってしまったなあと、少し泣きそうになった。
「危険があればすぐにわかりますから、ここで待っていてください。休める場所を探してきます」
「ご、ごめんなさい……」
「ボクも飲み物もらってくるよ。少しの間だけど、一人にして平気かい?」
「うん、平気……ありがとう……」
心配そうにする二人になんとか手を振って見送る。とはいっても、休める場所を探しに行った秋帆さんはともかく、アーリィはあくまで近くの人に水をもらいに行っただけなので見える位置にはいるのだ。さすがにこの距離で見失うことはないだろうし、そんなに心配はいらない、はず。
ここはまだ最初の目的地で、秋帆さんの予定的にはこの国の全部を回るはずなのに。確かに足手まといになると宣言してはいたけれど、こんな序盤も序盤でつまずくとは思いたくなかった。情報収集力も知識力も体力も何もなければ精神的支えになれるわけでもなんでもないのに、こんな状態で最後までついていけるのだろうか。さっそく不安になりながら、あたしはとにかく早く復調しようと、やけに優しく吹いてくる風に目を閉じた。

「あの……大丈夫、ですか……?」
おずおず。控えめに声をかけられたことに気付いて、あたしは目を開く。すぐ近く。手を伸ばせば届く距離。でも微妙に遠いような、緊張で上擦って、少し小さめな声がなんとなく聴きとりにくい気もするような、そんな距離。そこに、翡翠の瞳とおそろいの色をした髪を揺らして、あたしを心配そうに見下ろす人がいた。
黄色の貫頭衣を被ったその子は、あまり性別を感じさせない顔をしているけれど、たぶん、声から推測するに男の子だと思う。持っている籠に入っている白い花の香りがふわりと風に乗ってきて、あたしは反射的に深く息を吸った。
「顔色が、真っ青だったから……」
「馬車で、酔っちゃっただけだから……」
「そ、うなんだ……」
いまいち会話が続かなくて、二人して黙り込む。それでも、ここであたしを放っていけないあたり、きっと彼は優しい人なのだろう。
うろうろと視線をさまよわせて、もじもじと体を揺らして。そしてぎゅっと籠を握り直したかと思うと、恐る恐るといった様子で隣に座る。くい、と袖を引かれて彼を見るけれど、うつむいているせいで視線は合わなかった。
「膝、使っていいよ。あと、どうぞ」
籠から花を一輪取り出して、ぐいと押し付けられる。小ぶりの白い花は、つい最近見たことがあるような気がした。
どこだっけ、と考えている間にもくいくいと袖を引っ張られるので、抵抗する意味もないかと素直に彼の膝に頭を乗せる。渡された花は、きっと匂いを嗅いでいろということだろう。そうすると少し気がまぎれることは経験上よく知っている。素直に鼻に近付ければ優しい匂いがして、ほうっと力が抜けた。
「花の匂いでも嗅いで、遠くの方を見ていて。リラックスすると気が楽になるって、父さまも言ってたから」
「……うん。ありがとう」
見上げる形になっても目が合わないけれど、優しい人だなあ、とじんわりと思う。遠く。視界に入った空はとても青くて、優しく流れる風が気持ち良くて。少しだけ。少しだけ、気分がよくなるような気がした。
「戻ったよ……って、あれ、どちら様?」
コップと一緒に戻ってきたアーリィの声に、膝枕をしてくれている体がびくりと跳ねる。ちょっと頭が浮いたくらいだ。すごい驚きようである。
ここまではっきりと驚かれると、さすがのアーリィも驚いたのだろう。視線を向けると困った顔をしていて、話しかけられた方はさらに慌てて口ごもっていた。
「わ、あ、ええと、その、」
「膝を貸してもらってたんだ。おかげでちょっと気分もよくなったかも」
「そうなんだ。ありがとう」
「い、いえ……」
実際楽になったから、ゆっくりと起き上がりながら説明すれば、彼はもじもじと貫頭衣の裾を握る。あたしに声をかけた時もずいぶんとためらっていたみたいだし、人見知りというやつなのかもしれない。それなのに話しかけて、膝を貸してくれるなんて、きっとものすごいお人よしだ。
アーリィからコップを受け取って水を飲む。冷たいそれが体の中を通って、気持ち悪さを底の方に押し流してくれる感覚に、ほうっと息を吐いた。

「クリアー!」
どんっと抱き着いて少年に誰かが飛びついてきて、その勢いであたしの背中に彼の頭がぶつかる。そこまで痛くはない、けれど、少年の方がすごく申し訳なさそうにしてくるから、大丈夫だよと苦笑した。
飛びついてきた誰かの方に目をやって、あれ、と思う。ゆらゆらと揺れる髪に、腰かけている箒は、見たことのある女の子だった。名前は知らないけれど、一週間ほど前のあの日。アインザッツの宿の前のテラス席で、ディストさんに噛み付いてきた女の子、だ。
彼女はにこにこと笑ってクリアと呼んだ少年にぎゅうっと甘えるように抱き着くと、箒の柄に引っ掛けていた籠を自慢げに見せつけた。
「お待たせなんだよ。お買い物の任務、ばっちりなんだよ!」
「あ、ありがとう」
「あ! そっちの子、この前見たことある子なんだよ! こんにちは!」
「こ、こんにちは」
「……メイの知り合い?」
「ほぼ初対面なんだよ!」
「初対面なのにぐいぐいいくね……」
元気いっぱい、声も大きく。ふよふよと箒に乗って器用に浮いたまま、なんだか大げさな動作で挨拶をしてくれる彼女は村にいなかったタイプの子で、あたしはちょっとだけ面食らってしまう。
箒に乗っている、というのも、初めて見るけど。あたしの体が弱いことを知っている村の同年代の子たちは、基本的にあたしに対して少し控えめというか、扱いに困っているのが伝わってきていたから。ぐいぐいと迫られるのは新鮮で、ちょっと追いつかない。
目を白黒させてしまっていると、アーリィが握りしめていたコップを受け取りながらにとんとんと背中を叩いてきた。緊張しないで平気だよ、と気を使ってくれたのかもしれない。彼は穏やかに笑って、女の子と目線が合うように中腰になった。
「もしかして、着地する時に風で助けてくれた子かな。あの時はありがとう」
「えっへん! どーいたしましてなんだよ!」
箒の柄に横座りしたまま、大きく胸を張る女の子は実にご機嫌だ。地面から遠く、ゆらゆらと足を揺らしながら、こちらまで自然と同じ表情になってしまうくらいのまぶしい笑顔を浮かべて、ぎゅっと手を握ってきた。
「わたしはメイで、こっちはクリア。それからこの箒はアイヤールなんだよ」
よろしく、と言って、メイちゃんは次にあたしの手を握る。ぶんぶんと上下に振られる握手や箒にも名前をつけていることには驚いたけれど、その手のあたたかさも賑やかさも彼女にとても似合っていた。
その明るい雰囲気のおかげなのだろうか。気付けば乗り物酔いはだいぶ収まっていたみたいで、話すことがそんなに苦じゃないかも、とというくらいに楽になっている。気分転換になったのかな、なんて思いつつあたしたちも名乗れば、彼女はまたゆらゆらと体を揺らして笑った。
「わたしとアイヤールはもちろん、クリアもすごいんだよ。空から落ちちゃって足痛かったんだけど、こう、なんかいろいろ用意してくれて、もうあんまり痛くないんだよ」
「いろいろじゃなくて、薬を塗ったって意味……」
「しかも家にも泊めてくれてるんだよ!」
「そうなんだ。すごいね」
「そうなんだよ、クリアはすごいんだよ! ご飯も美味しい!」
ぼそぼそと遠慮がちに言葉を挟むクリアさんだけれど、今はうきうきと話をするメイちゃんの話を優先して聞いては、臆面もなく褒めていくアーリィに、彼女はどんどん笑顔になっていく。
わかる。彼は基本的になんでも褒めてくれるので、話しているうちに楽しくなってくるのだ。あたしにも覚えがある。アリちゃんに話を聞いてもらうと楽しいのよ、と村のおばあちゃんだって言っていた。
それでも、クリアさんはやっぱり恥ずかしいみたいで。顔を真っ赤にしてうつむいてしまうと、消え入りそうな声でつぶやいた。
「別に、そんな……料理くらいしかできないし……」
「魔法も教えてくれるんだよ!」
「でも兄さまや姉さまの方がずっと優秀だから……」
「わたしが今褒めてるのはクリアなんだよー!」
わあっとクリアさんにしがみついては肩をがくがくと揺らすメイちゃんは、一人でとっても賑やかである。
こういう子と話すのはよく考えたら初めてかも、と思うと、こっそりと心臓の鼓動が速くなっていくのがわかった。緊張している。それに、ディストさんに思い切り攻撃を仕掛けていたことを思い出すと、どういう顔をしていればいいのか悩んでしまう。
彼女もあたしと同じなのかな。それとももっと、秋帆さんみたいに、何か他の理由で彼のことを追いかけていたのかな。

「……ずいぶんと賑やかになりましたね」
「秋帆さん」
おかえりなさい、と声をかけると、彼女ではなくクリアさんがびくりと体を震わせる。慌てたように声がした方に振り返ったクリアさんは、そこに立つ秋帆さんを見て、サッと表情を硬くした。
これまでの様子からして人見知りっぽいし、表情がわかりづらい秋帆さんは得意じゃないのかもしれない。いや、あたしも全然、詳しいわけじゃないけど。でも彼女のことを苦手だなって思われるのはなんだか悲しいので、あたしはクリアさんの袖を軽く引っ張った。
「あ、あの、怖い人じゃないよ。ちょっと表情筋動かすのが下手だなって思う時があるけど、すごく優しい人だよ」
「下手……」
「あ、ええと、ごめんね、下手っていうかその、ぎこちないなあってよく思うというか! あたしは好きだよ!」
静かに眉尻を下げるのを見て慌てて謝る。だめだ。上手にフォローができない。今までそんなに人と会話する経験がなかったから気付かなかったけど、あたしって失言が多いのかもしれない。
悲しいのは秋帆さんのはずなのに、あたしの方が泣きそうになっていれば、それまでメイちゃんの話に耳を傾けていたアーリィがちょっとごめんね、と断ってから秋帆さんを見上げた。
「それで、宿は取れそうかい?」
「いいえ。異変の影響で帝都へ避難する方も多いようで、宿関連は真っ先に閉まってしまったようです」
「そっか、そういう問題があるのか」
かろうじて食堂や店は開いているけれど、領地の外から来る人をメインのお客さんに選んでいるような場所は、早々に店を閉めて帝都に移動してしまったらしい。
仕方のない流れかもしれないけれど、そうすると困るのはあたしたちだ。今日どこで寝ようとか、二人が目的地に行って作業をしている間、非戦闘員で特に何もできないあたしはどこで待っていることにしようとか。立てていた予定は崩れてしまって、うーんと三人で首を捻った。
『…………』
ふと、何か小さな声が聞こえて、何の声だろうと視線をさまよわせる。声がした、と感じるのは、あの暗がりでも経験したけれど。あの時聞こえたものとは全然違う気がする。正体がわからないのは同じはずなのに、恐怖心は抱かなかった。
どこからだろう。他の人たちの声かな、と振り返ろうとしたところで、はいはい、とメイちゃんが元気良く手を挙げた。
「クリア、この人たち、うちに泊めてあげたらダメ?」
「え、」
「困ってるみたいだし、こんな非力そうな女の子を連れて野宿とか大変そうなんだよ」
そうあたしを示して言われて、クリアさんの表情がひきつる。そりゃそうだろう。彼は確かにあたしに声をかけてくれるくらいには優しいけれど、同時にすごく人見知りであることは、この短時間でも理解できるくらいにわかりやすい。そういう人は断るのも大変なのだと、いつだったかにパパが言っていたのを覚えている。
実際、クリアさんはいいとも悪いとも言えずにうろうろと視線をさまよわせている。断るのが申し訳ない。断るのが可愛そう。でも家に知らない人をあげたくない。その葛藤がありありと伝わってくる。しかもちらちらと秋帆さんを見ているあたり、やっぱり苦手なんだろうなあとわかってしまって、あたしも何を言えばいいかわからずにアーリィを見た。
目が合ったアーリィが肩をすくめる。断ってもいいよと言いたいけれど、実際泊めてもらえるのはありがたいから何も言わないでいるのだろう。すべてはクリアさんの一言で決まってしまうのだ、という空気が、またさらに彼を追い詰めていた。
「だめ、なんだよ……?」
「う……」
ダメ押しとばかりにメイちゃんが瞳を潤ませればクリアさんが呻く。
なんとなくそんな気はしていたけれど、彼は彼女の押しに弱いらしい。やがて大きく息を吐くと、おずおずと重たそうに腕を持ち上げて、あっち、と奥の方を指さした。
「……あっちの、端っこの方に家があるんです。あまり広くもないし、それでもいいなら……」
「ボクたちはすごく助かるけど、いいのかい?」
「は、はい……」
あくまで視線をそらしたままだけれど、大丈夫です、と消え入りそうな声で答える彼の隣で、メイちゃんが自信に満ちた顔でこちらを見ている。ナイスアシストでしょ、と言いたげなそれにちょっと笑ってしまうけれど、助かるのは事実だ。
「ありがとう、クリアさん」
だからそう素直にお礼を言えば、クリアさんは恥ずかしそうにうつむいた。


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