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「あれ、ファルちゃん?」
「フロストさん!」
花畑へ繋がるトンネルから戻ってきてすぐ。少し村を歩いたところで、見知った人を見つけて、あたしは思わず小走りで近寄った。
そこにいたのはフロストさんだ。相変わらず人の好きそうな顔で笑っていて、近寄ってきてあたしの頭をぽんぽんと撫でて出迎えてくれる。アインザッツを出てくる前にきちんと挨拶には行ったけど、こうしてまた会えると、嬉しいな、と素直に思う。
メイちゃんだけは不思議そうにしていたからか、アーリィが後ろで紹介しているのを聞きながら、あたしはフロストさんを見上げた。
「どうしてここに?」
「いろいろとお仕事を任されていてね。今日は異変の調査だよ。もうティールオンでの異変も七年目だ。さすがにそろそろ、どうにかしたいと我が皇帝も望んでいてね」
とりあえず領主に会いに来たのさ、と笑うフロストさんにへー、と返事をしてから、そっとアーリィの服を引っ張る。
聞くのは悪いことじゃないけど、知らないの、と言われるのはちょっと恥ずかしかったので、あたしはこそこそとアーリィの耳に小さく問いかけた。
「異変って、そんなに前から起きてるの?」
「そうだよ。一番昔でエリアカナヤが三十年前に。マグメリアも、その……二年前に異変が起きてる」
メメディエムだけ異変が起きていないというのは聞いていたけれど、そんなに長い間異変が起き続けていることは知らなかった。いや、三十年前のエリアカナヤ、というのは、本で読んだことあるけど。いまいち実感が湧かなくて、皇帝と騎士団がこうして動いているのを見ると、思っている以上にすごく大事なんだろうな、と思った。実に頭の悪い感想である。
世界はあたしが思っている以上に大きくて、いろんな出来事が起きていて、あたしの知らないところで動いている。そんなの当たり前のことで、わかっていたつもりだけど。改めて村の外ってこんなに広いんだな、と息を吐いた。
「領主のもとへ行くのなら、同行してもいいでしょうか」
「でも、そろそろ天気も悪くなりそうだし……いいの?」
「はい」
すっと前に出た秋帆さんがフロストさんに問いかける。領主さんって偉い人だから、会えないんじゃないかなと思ったけれど。フロストさんは少し悩んでから、いいよ、とあっさり答えて、あの大きな鐘がついた時計台の下だよと指をさす。
そんなに簡単に会わせてくれるのかと驚いたけど、秋帆さんはそれ以上何も言わずについていくから、あたしたちも慌ててその後ろに着いた。
「おや、今日はお客様がいっぱいですな」
フロストさんについて訪れた領主さんのおうちは、クリアさんのそれと比べると、ずいぶんと大きく見えた。実際、お屋敷とは言わないまでもそれなりに大きな家なのだろう。入った玄関はとても広かったし、通された応接室は、あたしたち五人が入ってもそんなに窮屈ではなかった。
ゆったりと椅子に座る温和なお爺さんが、領主さんなのだろう。突然大人数で押し掛けることになったのに、彼はにこやかに笑って出迎えてくれた。
とはいっても、近況をフロストさんと話し合いだせば、あたしは全然話についていけなくなる。前知識がないとりかいできない情報に加えて、途中途中そういえばあれは覚えてますかこれはどうですか、この前どこそこに行った時のお土産がどうこう、それは覚えてないけどこっちは覚えててどうたらこうたら。二人だけの思い出話が挟まるから、余計についていけない。
たぶん、どこまで記憶を覚えているのかの確認も兼ねているんだろうとは、思うけれど。正直暇だ。メイちゃんなんてもう飽きてしまったのか、椅子に座らずにうろうろと部屋の中を動き回っている。一緒にうろついてもいいかな、秋帆さんは次にしたい会話でもあるのか、じっと二人の話を聞いているから、アーリィの服を小さく引く。彼は苦笑して、いいよ、と背中を押してくれたので、ごめんなさいと謝ってから、メイちゃんの隣にあたしも移動した。
二人できょろきょろと見回す応接室は、絵画とか彫刻とか、いろんなものが飾ってある。それにどんな価値があるのかは、よくわからない。でも製作者と思われるサインの名前は本で見たことがある気がするから、きっといいものなのだろう。あたしはどうせなら、いっぱい色がついてる絵の方が見ていて好きだなあ、と花畑の絵画に近寄れば、見覚えのある花にあ、と小さく声が漏れた。
(クリアさんのおにーさんの好きな花と同じ花だ。……包帯の子が持ってたのと、同じ花)
小さな花。可愛いとは思うけれど、特別に綺麗なわけではない。道端に咲いていたってわざわざ足を止めたりしないような、ささやかな花。
それなのに、ここに来てから何度も目にするせいで、やたらと縁がある気がする。結局、あの包帯の子が、夢だったのかなんだったのかもわからないままだから、本当に同じ花なのかはわからないけれど。名前も知らない小さな花が、何度もあたしに笑いかけているような気がした。
「その絵が気になりますか」
知らない間に話を終えていたのか、すぐ後ろから領主さんに話しかけられてびっくりする。思い切り肩を跳ねてしまったせいか、領主さんどころか、向こうで何か話をしていたらしいフロストさんやアーリィにまでくすくすと笑われて、少しいたたまれない。でも逃げ出すほどでもないから、頬を染めてうなずくことしかできない。
メイちゃんも後ろからひょっこりと顔を出して、綺麗なお花なんだよ、と言うのを見て、少し音を大きくしている心臓をなだめながら、ええと、と笑った。
「えっと、はい。お花、綺麗だなって」
「それは嬉しい。実は私が描いたのです」
「おじさんは天才画家だったんだよ?」
「ははは、さすがにそこまでではなかったですよ。趣味だったみたいです」
褒められると嬉しいですね、とにこにこと笑う領主さんの言葉がどこか他人事なのは、忘れてしまったから、なのだろうか。絵が趣味だったことを、覚えていないと言うことなのだろうか。
絵を描いていたことを忘れてしまうのはまだわかるけど。描き方も、描きたいという気持ちも忘れてしまったがゆえの言葉だとしたら、それは「記憶を失う」という言葉以上に重たい気がする。だって、趣味というのは、とっても大事なことだ。その人だけの大切な気持ちだ。その人がその人であるために大事だったことを忘れてしまうのは、その人自身を失ってしまうのと同じ気がして、なんだか急に悲しくなった。
忘れるって。その人自身を失うって。死んでしまうことと、あまり変わらないんじゃないかな。
「この絵は、この村から出て、もっと西の……土の大精霊様が眠るとされている花畑の絵です」
あたしの重たくなった気持ちなんて知らない領主さんは、窓の外を指さしながら説明を始めてくれる。それなら、暗い顔をするのはよくないだろうと、あたしはなんとかうつむきそうになる顔を上に上げて、そうなんですね、と返した。
あたしたちがさっき通ることのできなかったトンネルの向こうに、この景色はあるらしい。なるほど。花自体はティールオンのあちこちで見れるものだとしても、大精霊のいる花畑の花と言われれば、少しだけ特別なもののように思える。
「ふふ。自慢なのですが、私は昔、ここでかの四つの神秘の一人を見たことがあるのですよ」
「それって、アネスト?」
ええ、まだ覚えていますよ、と語る彼は嬉しそうだ。懐かしそうに花畑の絵を見ながら、柔らかく口角を上げて話し出す。
「美しい翡翠の瞳を持つ方だった。長く美しい髪をフードの中に隠していた。私は当時、どうしてこんな場所で、と驚いたものです……この地に残る彼の伝説は知っていますか」
問われて、素直に首を横に振る。知ったふりなんてしても意味がないからだ。隣のメイちゃんも同じらしい。ここではきっとみんな知っていることだろうに、知らないと言う子供二人に、けれど領主さんは怒ることも戸惑うこともせず、ではそこの説明から始めましょうか、と優しく笑った。
「大昔、常春が終わりを告げた後、疫病でこの辺りの生き物の多くが死に絶えました。病も死もなかった時代を生きていた当時のヒトたちは、その対処方法もわからず怯えてばかりいた。そんな時、とある少女が、この近くに隠れ暮らしていた魔術師を見つけ、彼に教えを乞うたのです」
その伝説の物語が始まる時点で、女神を眠らせた四つの神秘の存在自体は認知されていた。ミーナ皇帝とグイスブルグ龍王がそれぞれに統治を始める横で、一般に魔法を広めたアネストもまた、偉大なる神秘としてその名をささやかれていた。
とはいえ、彼だって病などというものを見るのは初めて。いくら魔法の知識があろうと、知らぬものにどう立ち向かえばいいかなど、すぐにはわからない。そもそも神秘とヒトは体のつくりも大きく異なっていて、子供が生まれることすら誰も知らなかったくらいだ。何もかも未知に包まれていて、何もかもが変わってしまった。
だからアネストは、自分に教えを乞うてきた少女に、そっと首を振った。
『今の己では君たちを助けることはできない。治癒魔法も君たちには効かない』
はっきりと告げたアネストに、けれど少女は決して諦めなかった。
『研究が必要だというなら、私を使ってくれて構いません。今すぐには無理だと言うのなら、彼らを封印してください。その間に、なんとしてでもこの病の解決方法を見つけてほしいのです』
そのためなら何でも捧げると誓う少女に、アネストは問います。
『彼らは今や、私の家族。そう思うほどに大切な人たちを助けることに、たいそうな理由など必要ですか』
その言葉に、この偉大な魔術師がどう心を動かされたのかはわかりません。ただ彼は少女ごとこの辺り一帯に眠りの封印をかけ、その後長い時間をかけて魔法と医学の研究を行いました。
長い時間をかけて謎を解明し、病の正体を突き止め、治癒魔法の理論を確立し。そしてついに、その薬を作り出した。
「それが、大精霊の封印のそばにあるこの花。これがあらゆる薬の素となり、多くの人を救うこととなったのです」
ほらあそこ、と。外にも咲いている、あの小さな花を指さす。最初にクリアさんが匂いを嗅ぐだけでも気が楽になる、と馬車酔いしたあたしに差し出してくれたけれど、その花弁は薬になるのだと聞いて、なるほどと納得した。
風邪を引いたらまずお世話になりますよ、と言うし、あたしも飲んだことがあるのだろう。
「あれが見えますか」
そう言って、今度は窓の外。白い花のもっと向こう。入る時にも見た時計台の上にある鐘を示す。
「今はただ時間を告げるだけの鐘ですがね。あれを鳴らすことで眠りの魔法を解いたそうです。そうして目覚めた村人たちに薬を与えた。その後その薬を共に研究することで、この地どころか、もっと多くの人を救ってみせたのです」
鐘の音で目覚めた人々は、広大な農地に花を植えた。知識欲が旺盛な人々に渡して研究をしてもらいながら、自分たちも食から健康を考えようと農業を栄えさせていった。この地が薬学の中心ではなく、あくまでも農業を行っているのは、それが理由らしい。
アネストの伝説が残る場所なのに、ティールオンには魔術師っぽい要素を何も感じないとは思ったけれど。結局、そこにいる人たちの特徴が領地の特徴になるというのは、なんだかおもしろい。
「まあ、最初の少女はなかなか眠りから覚めず、数百年の後に目を覚まして二人は結ばれたとか……いろいろ付け足された伝説ばかりで、真実かわからないことも多いですけど。実際に会ったあの方は、とても優しく聡明な人でしたよ。絵を描くのに悩む私にアドバイスをくださったり、様々な本の話をしたり。三人のお子さんがいるそうで、その話を聞いたりしました。たまにこっそりと町に降りてきていたのだと言われた時は驚きましたなあ」
ようやく花畑で出会ったというアネストの話ができて嬉しいのか、領主さんはにこにこと笑っている。本当に好きで尊敬しているのだろうことがこちらも伝わってきて、あたしも思わず頬が緩むのが分かった。
ふと、視界の端で、アーリィがこちらを見ながら、秋帆さんに何かを問いかけているのが見えて、思わず耳をすませる。目の前の人の会話よりもそちらを優先してしまうのは、とても失礼だとわかっているけれどメイちゃんが代わりに熱心に聞いているし、あそこの二人だけがわかる話がこれ以上増えると、とっても困ってしまうので、少しだけ許してほしい。
「神秘って子供できるのかい?」
「母体の方に生殖機能があって、相当頑張ればできるみたいですよ」
「じゃあ、あの人はその三人の子供の一人、なのかな」
「おそらくは」
聞こえてきた「あの人」というのは、ディストさんのことだろう。
アネストと関係のある人、という前提とあたしたちが持っている情報を合わせれば、彼がアネストの子供である可能性は自然と高くなる。
「彼は雷を操る魔術師です。雷は火と風の要素を持っていて……つまるところ、土の属性とは、非常に相性が悪い」
持っている属性の相性が体調の良し悪しにも繋がるというのは、あたしも聞いたので知っている。それを利用して、わざと土地の属性と大精霊の属性も相性の悪いものになっている、とも聞いた。
だから、たぶん。アーリィが彼から聞いた通り、ディストさんの家族の誰かが浸食によって苦しんでいる、というのも、嘘ではないのかもしれない。この土の大精霊の暴走で、とても苦しい思いをしているのかもしれない。……だからって、パパとママがいなくなってしまったこと、許してなんてあげられないけど。
「あの花は、かの魔術師と、その少女の思い出の花でもあるのですよ」
意識を傾けていると、その間も熱心に話を聞いていたメイちゃんに気をよくした領主さんが、嬉しそうに解説を続けている。その白い花の名前を告げながら、可愛らしいでしょうと笑って、目撃した日も大切そうに持っていたのだと、懐かしむように目を細めた。
「この花を贈って告白したのだとか。まあ、そもそも二人が本当に結ばれたのかは知りませんが、彼がこの花を好きだというのは本当だったみたいですし……ふふ、なんだかロマンチックでしょう?」
まだ覚えているものですね、と少しだけ寂しそうにした彼に、あたしは再び絵画へと視線を向ける。
小さな白い花。クリアさんのお兄さんの好きな花。包帯の男の子が持っていた花。ここでは特別な意味をたくさん持つ花。
それらはきっと偶然だ。ここに住んでいて、アネストの話を知っていたり、勉強が好きな子だったりすれば、みんな当たり前に知っていること。一番身近にあるから自然と好きになってしまうなんてよくあること。伝説に尾びれがついていくのもよくあることだ。
(白い花の、名前)
でも、でも。何故だかわからないけれど。この花の名前は、きっとあたしが思うよりずっと、大切なものなんだろうと、そう思った。