12
自分が愛する世界にガタが来ていたことなんて、とっくの昔に気付いていた。
「あーあ、かわいそうに」
そう呟く声に温度はない。感情なんて何も込められていなくて、ただ目の前に転がる事実をそれらしく言っているだけなのだろう。この、父の体を浸食した大精霊が、非常に神秘を嫌っていることも、ヒトの価値観から離れた思考をしていることも、ディストはもう、わかっていた。
力を使い果たして倒れたクリアは動かない。その横に一緒に倒れている子供も、自力で起き上がることはできないだろう。管理者以外を吹き飛ばせたようだが、彼らの意識はまだあるだろうか。あってもしばらくは痺れて動けない、くらいはしてくれないと困るな、と。先ほどまで閃光と強い魔力に眩んで動けなかった自分を思い出して、視線を落とした。
あの雷は彼らを攻撃するだけでなく、ついでに「アネスト」のことも狙ったものだった。大精霊の嫌いな神秘の血を引く自分たちもついでに攻撃してやろう、と放たれたものだから、魔力が強い者ほど動けなくなるものだった。
さすがに、観測者はそれくらいで止まらなかったようだけれど、あの後ほとんど攻撃も防御もできなかった辺り、それなりに痛かったのだろう。その中でも動けたクリアは、本当に魔力というものを持たない子供だった。
けれどそれを悲観することも責めることもせず、きっと母親に似たんだね、と笑った父親の優しい顔を覚えている。
魔法が使えなくても出来ることはたくさんあるよと、笑っていた幼い弟を覚えている。
父と、姉と、弟と、自分と。四人で暮らしていた時のことを、全部、全部。ちゃんと覚えているから。ひどく気持ち悪くて、めまいがした。
「神秘の血を引くんだから、もう少し役に立ってくれてもよかったのに」
父の体を動かして、自分が何者なのかもわからないくらいに正気を失った土の大精霊がつまらなそうにそう吐き出す。
見下ろす視線がとても冷たいことがたまらなく腹立たしくて、けれどどうにもできなくて、ディストは黙ってこぶしを握った。
だって、興味をなくしたように呟くくせに、その包帯にまみれた頬はぽたぽたとその目から溢れさせた涙で濡れている。あーあ、なんて言ってクリアに触れる手はまだ優しく見えてしまって、まだそこに、確かに父がいるのだと察してしまう。完全には浸食されていなくて、まだ父はここにいるのだと期待してしまって、こぶしを振り下ろすことなどできない。
いっそ父がすぐに土の大精霊に負けて支配されてしまえば気が楽だったのに、なんて。思ってもないことを考えた。楽になりたい一心で、絶対に起きてほしくないことを考えた。
「まあいいか。このままあれを捕まえたらおしまいだし」
軽やかにそう囁いて、大精霊は管理者へと手を伸ばす。杖にしがみついてこちらの出方を伺う彼女を抱きしめるように伸ばした腕が、ぴきりと音を立てて止まった。
ぴきり。ぱきり。硬い音。その腕から包帯が落ちて、まるで木のように変異した肌が現れる。
ぱきり。ぱきり。それは壊れる音だ。木が成長し大きく伸びて、そして蕾が開く音。父親だった体が、さらに別のものへと変わる音。
目をそむけるように、ディストは視線を落とす。
その先でゆらゆらと風に揺れる花を見て、暗い部屋で、ディストが受け取れもしない花をまき散らしたクリアを思い出した。
あの時、何も言葉は交わさなかった。交わせなかった。
無言で散らされた花の意味など考えたくなかった。疲れ切ったお互いの顔を見て上手に話す言葉なんて、一言も持っていなかった。
なにせ彼がこの七年間ずっと自分を責めていたように、自分も彼をあの日、一人にしなければよかったのにと悔いていたから。話し合ったりしたら、顔を見て話をしたりしたら。今、二人の足をなんとか立たせているものが全部、崩れてしまう気がして。そんなこと、出来なかった。
(もういいんじゃないか)
そう、心から思うのに。
もう全部諦めてしまったっていいと、囁く自分がいるのに。全部使い果たしてしまえば、自分だって立ち止まってしまっていいだろうと思うのに。
できない。一人では消えてやることもできない。何もできない。
もう目の前の子供が、自分の知っている父じゃないとわかっていても見捨てられない。
かすかに残る父の影を見つけては、手を離すことができない。
守りたかった弟が動かなくなっても立ち止まることができないのは、これまでに犯した罪が重たいからだ。家族のためとそう言って、他の誰かの大切な家族を傷つける。それがどんなに自分勝手なことかなんて、ちゃんとわかっていた。
これ以上は姉すら失うだけだとわかっていても何もできないのは、自分が弱虫だからだ。今自分が倒れたら。ずっと手招かれていた暗闇に落ちたら。本当に何も残らない気がして。何も残せない気がして。怖くて。怖くて。今更逃げるなんてできず、ただ強がって、勇ましいふりをして立っていることしかできない。
なにひとつ、なにひとつ。手のひらに残らないとわかっていても。
ディスト・アネストがディスト・アネストである限り。
ここから立ち去ることなんてできない。
「これでいいんだ」
このまま突き進むのが、せめてもの。
──その花は、記憶を奪って咲く花だった。
常春の世界は永遠だ。未来が永遠にあるのなら、過去を示す記憶など必要とは思わない。けれどそれを養分にして、その花は咲いた。
──記憶を奪うこと。それは、その存在が積み重ねてきた時間を奪うこと。
常春の世界で花は永遠に咲き続ける。咲くまでの記憶など誰も覚えていない。当たり前に与えられる永遠の中に、奪われて困る時間の積み重ねなど存在しない。
──時間を奪うこと。それは、誰かの存在を奪うこと。
彼が彼であること。花が花であること。その証明が記憶という時間の中に積み重ねられていたとしても、誰も気にしない。永遠の中では、存在の喪失など楽しいただの娯楽だ。枯れない代わりに生まれ変わる。そんな遊び。
──その花は覚えている。誰かの存在を奪って、花を開くから。
覚えている。永遠の中で、その花はすべてを覚えている。
だからこそ、自分の苦しみの上に広がる花畑など、少しも美しくない。そこに生きる生き物の時間などただの養分でしかない。
それで消えるか弱い存在でも大丈夫。この花がすべて覚えているから。その存在を養分として吸い上げながら、それは花開く。
大精霊の名を持つ花が、開花する。
地面を揺らしながら、巨大な芽が花畑を押し上げて顔を出す。木の幹と比べても変わらないくらいの太さのそれは、時間を早回ししているかのようにぐんぐんと上へ向かって伸びて、やがて空を隠すほどに大きな花のつぼみが、自重に耐えられないかのようにぐでりと垂れ下がった。
盛り上がった土に押しのけられて、ファルファッラの体が転がる。踏ん張るような力はなくて、そのままごろごろと転がるだけだったけれど、その先が秋帆たちの近くだったのは幸いだろう。なんとか開けた目の先で、クリアの体が土の下から新たに伸びる太い根に絡めとられていくのが見えた。
『あーあ。本格的に暴走してる。どうする? 思った以上にこっちパワー不足なんだけど』
「そうですね……ついでに、思った以上に向こうは敵意満々ですね」
『ネチネチしてるなとは思ってたけど、あいつこーんなに八つ当たりに本気出せる奴だったんだね』
地面から這い出して来る巨大な木の根に、ぽつぽつと音を立てて柔らかなつぼみのようなものが現れる。そこに直接花をつけるつもりなのだろうか。
それまでの白い花を踏み荒らして、自分が新たな花畑になろうとするほどに、魔力が集まって花が咲く。その色は一色だけではなく、赤や黄色など鮮やかな色ばかりで、見ただけでは綺麗だ。けれど、秋帆もアイヤールも、その花がこの領地の時間を吸って花開いたことを知っているから、あまり美しいとは思えなかった。
「この様子では町の方にも被害が出てそうですね」
『めんどくさいなあ……ほら、メイ。起きて。ほら』
「ファルさん」
「う……ん、」
秋帆に体を優しく抱き起されて、なんとか起き上がる。とはいえまだ視界は回っているような気がするし、体も重い。クリアの弱い雷で痺れた体は本調子は程遠い。
それでも、このままここで転がっていても邪魔なだけだというのは、ちゃんとわかっているから。ファルファッラはぐっと目を閉じて深く深呼吸をした後、大丈夫だと笑ってみせた。
その強がりくらい、彼女にはすぐにわかっただろうけれど。秋帆はそれ以上問うことはせず、ゆっくりと言い聞かせるように口を開いた。
「おそらくフロストさんが村人を避難させていると思います」
「フロストさんが……?」
「彼は騎士ですからね。それに……ここからある程度離れられたら、しばらくは大丈夫だとも知っているでしょう。でも避難は大変ですから、彼のところへ行って、手伝ってもらえますか」
とりあえず広場に転移させますね、と聞いて、くしゃりと眉を下げる。情けないとはわかっているけれど、すぐにわかった、なんて答えられなかった。
転移魔法はすごく大変だと聞いたのに、それをさせてしまうことの申し訳なさ。
任された留守番をできなかった悔しさに、今もなお足を引っ張るだけの無力さ。
それに、ほとんどはファルファッラというよりもクリアの行動に驚いていただろうけれど、人質という形で邪魔をしてしまったという自覚もあって、ただただ申し訳なくて仕方がない。
「で、でも、あたし、」
それなのに。それなのに、そんなこと出来るだろうか。ただの避難の手伝いと言っても、そんなことも出来ないのではないかと不安でたまらない。できなかったら、また、すごく情けないし、申し訳ない。
ファルファッラはまだ、何もできないのだ。
ただここにいるだけの、無力な子供なのだ。
「……夢を、見ているでしょう。誰かの夢を」
ゆめ、と小さく零しながら、柔らかく問いかけてきた秋帆を見上げた。ただじっと自分を見つめるその瞳に、ファルファッラは少しずつ気持ちが落ち着く気がした。
夢。夢は、見ている。よく見る。でもきっと、そういうことではない。そういう、当たり前のことを聞いているわけではないだろう。
夢。考えて、ぼんやり。そういえばここ最近はずっと、誰かと一緒にいる夢を見ている気がする。包帯の男の子ではなくて、誰か、とても綺麗な人。よく、覚えていないけれど、その人に何かを言われたような、しないような。
混乱するファルファッラを黙って見ていた秋帆が一つうなずく。それが肯定なのかどうかは、よくわからなかった。
「その人がどこにいるのかは知りませんが、あなたを守るつもりでいるようですから。大丈夫、たどり着けますよ」
それが今のできることですよ、とぎこちない笑みで諭される。
そうしたら、それにうなずいて、なんとかするしか選択肢はなかった。