14
「姉さん?」
ぷつりと、魔法が解ける感覚がした。
その名前を呼んだのは無意識だ。彼女はディストよりもずっと力の強い魔術師であって、弟も父も自分の手から零れ落ちてしまった今、縋れるのが彼女しかいなかったから、呼んでしまっただった。
けれど、予感でもあったのだろう。彼女の施した魔法が解けてしまったのだと、直感したのだろう。魔法が解けた理由は考えないようにして、意味もなく見上げた空が、蕾に吸い取られるようにぐんにゃりと歪んだのを見て、ああ、と泣きたくなった。
「う、ああ、ぁあああっ!」
「父さん!」
悲鳴と共に、ゆったりと光る何かが筋を描いて蕾へと集まっていく。それが何か、ディストはちゃんとわかっている。だってあれば、自分があちこちから集めてきた魂たちだ。純粋な力の塊。魔力そのもの。
あれを集めたのは、女神の封印から土の大精霊を開放するためだった。大精霊の存在を切り離して、それでもなお封印を存続させるための代わりの力として集めたはずだった。
けれどそれらは、まるで花が咲くための養分になるかのように蕾に吸い上げられていく。封印という地面を無理やりに引き裂いて、守りたかったものも消したかったものも全部全部巻き込んで、それは大きく体を伸ばす。
天を覆うほどの蕾が、悲鳴と共に開花する。
『……あれこそ、土の大精霊。誰かの記憶という時間と存在を糧に咲く花、アルソレイユ』
アイヤールが静かに己の同族の名前を呼ぶ。同じ常春を生きたはずの精霊を見上げて風に混じる声は、どこか寂しそうに響いた。
花開いた巨大な蕾は、その美しく生気に溢れた桃色を、空いっぱいに広げている。大きな花弁は幾重にも重ねられていて、その全貌はよく見えない。だが美しい花弁に対し、その根や茎は茶色く変色し地面を切り裂くように伸びあがっていて、一部は今にも腐り堕ちそうなほどに萎びていてバランスが歪だ。そこに絡めとられたはずのクリアの姿も見えない。元々広がっていた白く美しい花畑が穴だらけになっているのを見て、アーリィたちはごくりと息を飲んだ。
「あ、あれが……?」
「ただのめっちゃおっきい花しか見えないし、ちょっとイメージと違ってびっくりなんだよ」
『まあ、ノリノリで暴走しすぎて、自分の形も思い出せてないってことでしょ。これはもうわからせるしかないね』
「ど、どうやって?」
『殴って黙らせて契約に同意させる』
「野蛮なんだよ……」
けれどそれしか方法はない、と言われてしまえばそれまでだ。ここまで暴走状態になった精霊を放置するわけにはいかない。だが倒すとなるととてもじゃないがこのメンバーだけではどうにもならないだろう。であれば、無力化を図るのは自然のことだった。
そのために必要なのが契約者である。
契約とは、精霊にとって重要なものだ。神秘の存在による魔力の残滓から生まれたということもあり、その存在は他社に依存気味である。だから彼らをここにつなぎ止め、力の方向性を安定させる「誰か」の存在として契約者がいれば、あの暴走状態も落ち着くだろう、というのがアイヤールの意見だ。
『女神の封印なんて、あとで観測者がどうにかすればいい。とにかく今は契約という形で縛りこんでおとなしくさせるのが最優先だと思うけど?』
「異論はありません」
転移魔法を使った後、黙って花を見上げていた秋帆がそううなずいて、この場で契約の資格があるのはメイさんだけですね、と言葉を続ける。
それからおろした視線の先には、こちらの様子をうかがっているディストがいて。アーリィが戸惑いながらも前に出て、共にメイを後ろに庇うように立った秋帆は、封印は後でどうとでもします、と力強く発した。
「ということで、メイさんは頑張って上までたどり着いてください」
「わかったんだよ。じゃあ、フォロー的なところは全部おまかせなんだよ!」
箒に跨って飛び出した彼女の背に、だが警戒したように雷は飛んでこない。ひとりきりで立っている彼は少女を見送るだけだ。
けれど、彼は両手を上げるわけでもなく、やたらと綺麗に腰を折って二人に礼をして。そうして再び杖を構えた。
「……もう父のためと頑張る必要もないのでは?」
「そうだな。でもまあ、ここまで来ちまったら、いっそ最後までぶっ壊れちまった方がいいかなとも思うわけだ。せいぜい後でじっくり裁いてくれよ」
そう、自嘲して。彼が一言呟くと同時に、閃光が視界を埋め尽くす。
先ほどまでと変わらない魔法だ。轟音と閃光で感覚を奪って攻撃する、単純なそれ。十分に強力で、属性の相性のせいで苦戦はするけれど、お互いに決定打を与えられない魔力の打ち合い。
「荒いですね、相変わらず」
「腹が立つな、相変わらず」
お互い、これが意味のない行為だとはわかっていた。まだ彼に敵対する気持ちがあるなら、狙うべきは秋帆ではなくメイだ。それでも無駄な行動をしているのは彼が言った通り、自棄になっているだけなのだろう。
ディストにはもう守るものがない。彼女の防護だって越えられない。大精霊の暴走でもっといろんなものを失うくらいならもうやめてしまえばいいのに。ここで立ち止まってしまうのは、吸い上げられた魂たちに失礼だと、彼は止まらない。
それを秋帆も、後ろ手見守るアーリィも、その疲れ切った表情で察してしまっていた。
「……精霊を起こしたのはクリアなんだよね?」
「ああそうだ、あいつのせいだよ。あいつがお人よしだったのが悪い。でもそこがいいとこなんだよなあ」
アーリィの問いかけに、ディストは意外にも素直に答えた。クリアの叫びは本当のことだと、あっさりと彼は肯定する。
「あいつが起こした。父さんは浸食しようとしてきた大精霊からあいつを庇って、今はあんな状態。どうせわかっているだろうが、結界を張って逃がさないようにしたのは姉さんだ。これでも、被害が増えないように頑張ってたんですよ?」
にっこり。彼は笑う。
初めてあの村で見かけた時のように、紳士的な笑みを浮かべて、柔らかく答える。
「でも俺が耐えられなかったんだ」
耐えることが耐えられなかった。どうにかしたかった。少しずつ追い詰められていく父を助けたくて、眠り続ける姉を助けたくて、自分を責め続ける弟を助けたくて、我慢できなかった。
家族が引き離されていくのが耐えられなくてどうにかしたかった。でもわからなかった。それでも立ち止まれなかった。誰かを傷付けることに、躊躇うことができなかった。
「家族を助けたいって思うのは、悪いことじゃないだろ?」
にっこり。紳士的な笑みを張り付けたまま彼は言う。
杖の先に魔力が集まって、集まって。詠唱も無しに肥大していくそれに、おそらく己の全力の魔法を発動しようとしているのだろうと察する。
家族を助けたかった。
耐えられなかった。
どうすればいいのかわからなかった。
それなら誰かを傷付けてでも何かを為すしかなかった。
そんな方法しか残っていないならするしかなかった。
それでもっと、追い詰められていったとしても、止められない。
淡々とそう語った彼は、ある時すっと笑みを消して。ぐんにゃりと顔を歪めて笑った。
「そうじゃなきゃ、どうすればよかったんだ。誰も何も教えてくれなかっただろ。だったら何もかも犠牲にしてでもどうにかするしかないだろ! 他に家族を守る方法があるなら答えろ! 観測者!」
「そんなのこっちが知りたいよ!」
轟音を立てて放たれた雷に、叫び返したのはアーリィだった。
それまで後ろで耳を傾けながら秋帆を見守っていた彼の魔法では、ディストに太刀打ちできない。そうわかっていたから後ろにいたずなのに、けれど飛び出さずにいられなかった。
だって、彼も同じだったから。同じだから、許せなかった。
「どうすれば助けられるかなんていつも知りたい! 何をしても追い詰めるばかりで、どうにもならなくて……っそうだよ怖いんだよ炎の魔法なんて使いたくない! でもだからって誰かを傷つけていいわけでもないから、黙って怯えているわけにもいかないから!」
わからないわからないと彼は叫ぶ。
怖い怖いと体が震える。
それでも叫ばずにいられなかった。それはもしかしたら、少しだけ羨ましく思ってしまったからかもしれない。誰かを傷付ける手段を選べたディストのことを、勇気だと思ってしまったからかもしれない。それは選んではいけない手段だとわかっていても、最低だと、本当にただ、事態をややこしくしただけの悪手だったとしても。行動することができた彼を、少しだけ羨ましく思ったから。
だから、それはダメなんだと叫んだ。それではダメなのだと叫べすらしないのなら、自分は自分を許せない。
それは、「誰かを傷付けるくらいなら行動しない」を選んだアーリィができる、精いっぱいのことだった。
「逃げ出せないなら、せめて諦めたくないよ!」
風を纏う箒に跨って、空を旋回する。まっすぐに上空へと駆け抜けるのは、今は難しい。自分に敵意を持っていると判断した花が、絡めとるようにその蔓を伸ばしてくるからだ。
細長く伸びるそれは、メイを逃した後は先端が花開くように枝分かれして、しゅるりと下に落ちていく。枯れて腐り堕ちるようなそれに捕まるなんて、メイは嫌だった。
『疾風』
逃げられないほど素早く近寄られれば、アイヤールが風を吹かせて守ってくれる。契約者なんだから当然でしょとばかりにメイの魔力を使って勝手に発動する風の魔法は、蔓を切り裂き自身を高く高く上昇させて、ひたすらに上へとメイを導いた。
目指す先は花の中心。そこに大精霊はいる。契約して落ち着かせたところで、目的である妹の魂が無事なのか、元に戻るのか、まだメイはよくわかっていないけれど。それでも、高く高く、それを目指した。
あの日、メイは家族を奪われたことが許せなくて故郷を飛び出した。見ず知らずの世界に臆することなく、ひたすらに前へと進んできた。それは彼女が妹を大切に思う姉だったからだろう。行動するだけの力を持っていたからだろう。だから、何も出来ないんだと視線を落としていたクリアのことを、メイはあまり理解してあげることはできなかった。
それでも、彼が家族を大切に思っていたことはわかっている。だからこそ、追い詰められてしまったのだろうことも、なんとなくはわかる。故郷にいた、魂を失った親を見てせいせいしたと言った人のようだったら、きっと違ったのだろう。でも、そんな優しい彼だから友達になりたいと思ったのだ。
だって、メイもそうだったから。家族がいつも一緒で幸せ、なんてことは一部の人間だけの話であると、まだ子供のメイでもわかっていたけれど。メイにとっても、家族と一緒に過ごせるほうが好きだから、止まりたくなかった。残念だったね、もう助からないね、きっといつか奇跡が起きることでも祈ろうか。そんな司祭の言葉なんて何も響かなかったし、ずっと眠り続ける妹を見続けなければいけないなんて絶対に嫌だった。
ならば行動すればいい。行動するしかない。どうすればいいのかは、当然わからない。彼女を導くアイヤールという存在はいたけれど、彼も全部は教えてくれないから。でもただ目を伏せてじっと耐えるなんてことも、関係のない人を巻き込むことも耐えられないから、メイはディストを追いかけたのだ。
本当は、ディストをどうにかすればすべて解決するとも思っていない。それをきっかけに何かは起こせるだろうけれど、それが奇跡になるとも事件の解決になるとも思っていない。子供だけど。子供だから。魔法が解けてしまうことを知っている。
それでも信じて行動するしかなかったのだ。どうすればいいのかなんて誰も知らないのだから。メイは、このままではいられなかったから。
「わたしは、家族が好きだから」
花弁の中心に少女のような姿が見える。あれが大精霊の本体なのだろう。
たどり着いたそこで、彼女は契約者の資格を見せつけなければいけない。詳しい説明を聞いたところであまり理解できなかったけれど、だからといって立ち止まるなんてこと、彼女は選ばない。
「友達のことも、好きだから」
全部、全部、どうにかしたい。壊れてしまうなんて、許せない。
誰かを傷付ける行動は選びたくない。けれど傷付けないために行動しないことも選びたくない。強欲なのだ。子供だから。誰も傷付けずに目的を達せないと嫌なのだ。
欲張りに。強欲に。メイの今までの時間が、少女の背中を押す。
「手を伸ばすのを、やめたりしないんだよ」