15
開こうとした花びらを、その手はそっと包み込むようにして閉ざした。
君は咲いてはいけないと。君が咲くために必要な力はすべて、別のことに使ってほしいとその手は言った。
そんなことは知らない。花は咲きたいだけだ。世界に溢れて消えそうになっていた記憶や魔力を集めて、その人のための花を咲かせたいだけだった。そうして気が済んだら次の花。枯れはしないけれど、その花はいろんな形に変わることが好きだった。
なのに、咲いてはいけない、だめなのだと繰り返す手は離れない。邪魔だ。この手は嫌い。この手から流れてくる記憶もあんまり好きではない。どうして咲かせてくれないのだと不安ばかりが蕾の中で膨らんでいく。それが苦しい。痛い。嫌だ。
唯一、好きだと思ったのは、一瞬だけ手の拘束が緩んだ時に吸い取った記憶だ。これは好きだった。誰かが笑っている記憶。この記憶の主にとって特別な人が、自分に手を差し出している。
その人は自分の知らない生き物の形をしていて、記憶の主とも生きる時間が違う。もともとはその人にとって大切だと言う家族……きっと同族のことだ。それを助けるために目の前に現れただけだった。利用しようとしただけ。すげなく断ったってよかった。でもちょっとだけ、寂しかったから。その人の目が、とってもきれいだったから。その人を眠らせて、研究にちょっと使って、目的を達して、目を覚まさせた。
そうしてありがとうと笑うその人が、何故だか忘れられなかった。
お別れをしないでくれるその人が好きだった。私の名前はね、と。告げる声は柔らかくて。その声に名前を呼ばれると嬉しくて。嬉しくて。嬉しくて。もっとずっと呼んでいてほしくて、その人の名前を呼んでいたくて。忘れられないくらい、その人のことが好きだった。
家族が増えて、呼べる名前が増えて、名前を呼んでくれる人が増えても。その人がいなくなっても、その声だけは、その名前だけは、忘れたりしなかった。
──忘れられない記憶は好き。強烈に焼き付いたそれが好き。
──揺れ動く感情と、やがて花開く強い何かが大好き。
──ああ、咲きたい。この記憶で花を咲かせたい。
──でも咲けない。まだ手が邪魔なの。それを押しのけられるくらい、いっぱいいっぱいいろんなものを詰め込んで、なんとか花開いたはずなのに。全然上手に咲けないの。思ったように花開けないの。
──どうしてかな。どうしてかしら。
──今一生懸命に私を刈り取ろうとしているあなたなら、わかるかしら。
「そんなの、自分の花じゃないからなんだよ」
くたびれて萎びそうになる手を、誰かが掴む。熱い。でも小さい手だ。咲こうとする花びらを抑えていた手ではない。
「ええ? 自分の記憶だけじゃ咲けないのは仕方ない? 知らないんだよそんなの。精霊って面倒くさ……いたた、」
知らない子。知らない生き物。少しだけ懐かしい気配はするけれど、彼女にとっては知らない命だ。吸い込んだ記憶の中に、この子はいただろうか。小さい生き物。常春の終わった世界で生きるヒト。
己の元にたどり着いたこの生き物は、先ほどまで魔力をぶつけあっていた。その子は彼女の手を取ると、これであってるのかな、と誰かに何かを聞いている。わからない。なんとか咲いたはずの花を維持できなくて、ほろほろと下を向いては落ちていく。崩れていく。
もう咲けないのかしら。花は本当に枯れてしまうのかしら。手折られて落ちて、散ってしまうのかしら。
「心配しなくても、花なんて、そろそろ季節だなーって思ったら咲いているものなんだよ」
あっけからんとそんなことを言う小さなヒトに、少しむっとする。拗ねてしまう。常春は終わってしまったとしても、咲いていたいって私は思っているのに。咲きたいって思っているのに。今じゃなくてもいいなんて気軽に言うけれど、私は嫌。嫌なの。
「じゃあ、一回全部リセットするんだよ。この花が咲かないなら仕方ない。ほらほら、吸い込んだもの一回全部出して。それからもう一回やろう。大丈夫なんだよ。君が君の記憶で咲けるように、わたしがついているから」
優しく、小さな手が撫でてくる。何故だかその手に促されるように、抱え込んでいた記憶が流れ出していく。詰め込んだそれがなくなっていくと、当然、花は小さくなって、軽くなった気がして。ゆっくりと、落ちていく。
でも、わたしの体は放り出されない。種にもならない花を、その小さな手が抱きしめている。その記憶を奪おうとすれば、吸い取るんじゃなくて一緒にするんだよ、と少し怒って。
そのくせ咲いていいよ、と言って、記憶の中そっくりそのまま。先ほどまで好きだなと思っていた記憶の中にいた誰かそのまま。
その小さな手の主が、嬉しそうに名乗った。
「わたしはメイ。今日から君の契約者になるんだよ」
遠くで鐘が響いている。
聞き覚えのある音だ。遠い昔。まだ、子供たちが生まれていなかった頃。まだ、愛しいと思った彼女が隣にいて、名前を呼んでくれていた頃のこと。
忘れていたそれがゆっくりと戻ってくる感覚。長く、綿毛のように風にさまよっていた種がようやっと地面にたどり着いたような。咲きたかった場所に根付いたような。大事に育てていた花がようやく咲いてくれたような感覚。
ひとつ花開くように思い出す。大切なもの。大切な名前。
そして、花びらが散るように、思い出が落ちていく。
「……ぁ、あ……」
ゆらり、起き上がった体は重い。地面についた手は記憶のそれより小さく見えるし、少し風に触れるだけでずきずきと痛む。上手に力も入らなければ曲げるのも一苦労で、まるで枝にでもなってしまったみたいだ。
それでもなんとか立ち上がって、揺れる視界の中で必死に前を見る。ここはどこだ。自分はこれまで何をしていたのか。まだ霧がかった思考の中で、白い花びらが舞っていた。でこぼこに抉れた地面の上に、それでも花咲くエルダの花を見て、ああ、と声が落ちた。
「ク、リアは……無事、なのか……?」
掠れた声が耳に届く。自分はこんな声だっただろうか。わからない。けれど、そんなことはどうでもいい。自分はそう、子供を守ろうとしたのだ。解いてはならない、解けてはいけない封印に触れようとした末子に向かって飛び出してきた大精霊から、あの子を守ろうとした。
覚えている。ああ、覚えている。魔力を持たない彼に怪我をさせるわけにはいかないからと、焦っていた。戦うような魔法の使い方は久しぶりだった。そんな言い訳のせいで、偉大なる魔術師の称号を持つとは思えないくらい、とっさのそれに反応しきれなくて、何かが直撃したのだ。
ああ、そうだ。早く、大丈夫だと言ってやらなくては。心配することはない。あんなに何度も近付いてはいけないと言った封印に勝手に触れたことは、叱らないといけないけど。父はこの通り無事だし、君は悪いことをしたわけじゃないんだと、言ってやらなくては。
春の終わり、自分たちは自分たちのために、大精霊にかかる負荷を無視して行動したのだ。花開こうとする蕾を押さえつけて、膨れ上がるそれを無視した。苦しいと泣く声を、可愛い末子は無視しなかっただけ。優しく育ってくれてよかった。あの子は泣き虫だから、そう、安心させてあげなくては。
「ディストも、エルダも……無理を、していなければ、いい、けど……」
歩くごとに体が崩れるように力が抜けていく。それでも進まなくてはいけない。止まってはいけない。
視界に映る白い花と同じ名前を与えた長女は一番己の血を濃く継いだようで、魔法の扱いがとても上手だ。普段は省エネだなんだと言ってのんびりとしていることが多いけれど、父や末子のためにとなんでもできてしまう。そんな心配はないよと手を引かなくては。ちょっと、加減が下手な子なのだ。それはきっと、母に似たのだろう。
ヒトは子供を生むなんて知らなかった。常春の世界には終わりがなかったから、命を引き継がれていくことが不思議だった。ああでも、好きな人と同じものを愛せるのは、なんだかとても嬉しかった。
そうして生まれた次の子供は、長子ほどではないけれどやっぱり魔法が上手で。けれど性格はずいぶんと強がりで素直でない子に育った。でもとても愛情深い子だとみんな知っている。姉のようになりたいと無理をして、弟の自慢になりたいと無理をする子だから、誰かが止めないととんでもないことをしてしまう。
大丈夫。そんなに無理をしなくても。その優しさは伝わっているし、そんなところが不器用で愛しいよと、言ってあげなくては。
可愛い子供たち。愛しい子供たち。自分とおそろいの色の瞳を持つ大切な子。彼女がいなくなっても、彼女が確かに隣にいたのだと思い出させてくれる、最愛の子たち。
泣かないで、と。呟こうとした声は音にならない。がくりと体が傾く。足がなくなったみたいだ。それくらい唐突に力を失って、地面へと落ちていく。
その視界の中で、見知らぬ少女を見た。……いいや、知ってはいる。懐かしい顔だ。時空の観測者。ああ、彼女がここにいるということは、それだけの時間が過ぎたということは。きっとあの子が触れなくても、もう封印は限界だったのだ。
彼女はこちらに手を伸ばそうとして、ためらうように立ち止まって。ただ、この体が地面に倒れるのを見ている。それはそうだ、と薄く笑った。彼女は誰にも手を伸ばせない。
「ああ……きみにも、あやまらないと……」
「……アネスト」
ああ、そうだった。自分はそんな名前を名乗っていた。本当はもう一つあるけれど、それを呼ぶのは、もういない彼女だけだった。
立ち上がらなくては。ヒトから見ればもう立派に大人だったとしても、自分にとってはいつまでも子供だ。きっとまだ泣いている子供たちを、もう大丈夫だと、安心させてあげなくては。
ああ、今なら、わかるかもしれない。彼女のことが。家族のためよと笑って、己の掲げた無理難題だってこなしてしまった彼女のこと。あの時自分は理解できなかった。家族とか、そんな繋がりの名前は常春の世界に存在していなかったから。
でもきっと、同じことだった。最初は同族のため。やがて仲間のために行動して、次は知らない生き物のためになって。それがいつの間にか家族になった時に、ちゃんと気付いていた。
君も同じ。僕も同じ。ずっと、ずっと。
ただ、好きな人のために、できることがしたかっただけ。
誰かが手に触れる。その姿は見えない。でも手の感触があたたかい。
知っている気がする。誰だろう。わからないな。頑張って顔を見ようとしたけれど、名前はわからなかった。
それでも、その人は手を握ってくれて、優しく笑ってくれるから。もう大丈夫だと、子供たちもちゃんと大人になったからと、そう語るから。
それなら、少しだけ。少しだけ休もうと思った。どうにも体が重たい。これでは無理していると思われて余計に泣かせてしまうだろうから。少しだけ休んで、それから会いに行こう。
ゆっくり。ゆっくり。目を閉じて。
そうして花が散るように、彼は春から旅立った。