17
「なくした記憶は、だんだんと思い出していくのかと思ってた」
「……そのはずだったわ」
晴れ晴れとした空を見ながらベッドに横たわるエルダに、水差しを持ってきたアーリィが何とはなしに話しかける。ただの世間話だ。長年眠っていた反動でうまく体の動かない彼女の世話を手伝いながら、なんとなく話をしたかっただけ。
だから別に、この問いかけに明確な答えはいらないことを、彼女もわかっているのだろう。ベッドに半身を乗り上げて、エルダの膝の上で寝入ったファルの頭を撫でながら、彼女はゆるりとほほ笑む。
「急にいろんなことを思い出して、びっくりしたでしょうね」
「いろいろとパニックにもなってるみたいだけど……そこは、さすがに騎士の人たちがなんとかしてくれてるみたい。あ、エルダさん、もう少し食べられない?」
「……少し苦手で」
「病み上がりみたいなものでしょう。好き嫌いしないでください」
先に持ってきていた食事にほとんど手が付けられていないのを見て、じとりとした視線を向ければ、彼女は気まずそうに目をそらす。
神聖で優美な女性といった容貌だけれど、中身はそこまでではないのかもしれない。上品で穏やかそうな見た目と必ずしも一致しているわけではない秋帆のことを思い出して、アーリィは小さくため息を吐いた。
「作ったクリアさんが泣きますよ」
「それは……困るわね。弟たちのことはさんざん泣かせてしまったから」
形の良い眉を下げて、エルダは渋々といった様子で食器を引き寄せる。危ないからと、起こさないようにそっとファルのポジションを変えれば、彼女はゆっくりとそれを口に運んだ。
緩やかな風が吹いて、開いていたカーテンを揺らす。ほのかに感じる花の香りは、ひどく穏やかに感じた。
「それにしても、すごいですね。精霊に枷をはめながら、ファルの夢に干渉してた、なんて。さすがというか、なんというか……」
「かなり無理はしたわ。実際、身動きが取れなくなっていたもの」
クリアとディストの関係について、アーリィはもともと秋帆から話を聞いていた。おそらく、きっと、と何度も言葉を重ねていたのは、今にして思えば不確定な話をファルやメイにしないようにという予防線だったのだろう。そして、彼らとは別の三人目の子供の魔法がトンネルを封鎖しているのだろうと、彼女は言っていた。
まあ彼女が言うのならそうなのだろうな、と疑いもせずに信じていたのは、少し無責任だったような気もするけれど。まさか意識を眠らせてすべてを魔法に集中させることで、トンネルの封鎖どころか精霊に枷をはめていたとは思わなかった。魔術師アネストの血を引くエルダの優秀すぎる魔術師ぶりには、こっそりと舌を巻いた。
「でも、やっぱり管理者はさすがね。私がこの子に干渉していたことも気付いていたみたいだし……この子を私のところに向かせた時は驚いたけれど」
彼女は再び食器を置いて、ファルの頭を撫でる。
ファルを人質に使われたときはどうやって彼女を逃がそうと焦っていたから、一人で行かせても大丈夫とあっさりと転移させた秋帆には驚いた。余計なことは知りすぎない方がいい、というのが彼女の基本スタンスのようだけど、やっぱり彼女には、とりあえず思ったことや気付いた情報は悩まずにすべて共有するように言った方がいいかもしれない。
「まあ、私の居場所を突き止めるには彼女が動くよりも、この子が自分に繋がっているものを追いかけた方がはやいだろうし。私を起こして首輪を外させなければ本体が出てこないから契約できないとか、理由はいろいろとあったのでしょうけれど……」
眠っていたとはいえ、どこか他人事のように話すエルダに、アーリィは苦笑することしかできない。
と、いうより。父を失ったことを、もっと気にしていると思ったのに。そんな風に、まるでもう遠い昔の話のように語るから、逆にそれ以上のことを何も聞けない。どんな人だったの、とか。どんな魔法を使えたの、とか。ただの一個人として、ただの神官見習いとして、現代に生きていた神秘のことを聞いてみたい気持ちはあるのに、そこまで突っ込んで聞く勇気はなくて。むしろそれが狙いかな、と肩をすくめて、彼女が視線を向ける窓の外へと、自分も目を向けた。
「記憶のように、戻らないものもたくさんあるけれど」
穏やかな風が入ってくる。
ほのかに花の香りがする。
優しい賑わいが聞こえてくる気がして、そっと、何かが変わった気がして。
ただ静かに、穏やかに。エルダは柔らかく微笑んだ。
「貴方たちには感謝しています。これ以上、家族が泣くのは嫌だったから」