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もうしばらく近くに駐屯しているから、何かあったらすぐに連絡してね、と。最後までこちらを案じてくれていたフロストを見送って、ふうと息を吐く。いくら彼が優しい雰囲気を持っていても、やはり帝国の騎士と話をするのは緊張する。自分でもまだ、何が起きたのか理解が追い付いていないのだから、なおさら疲れた。アーリィは少しの間うなだれて、それからよいしょ、と勢いをつけて立ち上がった。
これまでのことも、これからのことも、まだわからないことばかりだ。けれど何をするにも、まずはファルファッラの容体が安定しなければ始まらない。伏せる彼女の世話はいつも彼女の父であるイリスが行っていたから詳しくはないが、教会にいた時に奉仕活動として経験を積んでいたから、そう変なことにはならないだろう。
そうと決まれば、まずは必要なものを揃えなければ。一度彼女の様子を確認しよう隣の部屋に移動する。一応小さくノックをしておいたが、もちろん返事はない。静かに扉を開ければ、まだファルファッラは眠っていた。呼吸が落ち着いているのを確認してから、「少し買い出しに行ってきます」と書置きを残して部屋を出た。
ここ、アインザッツの大通りを歩く人は多い。さすがに中心部と比べれば人は少ないのだろうが、あの小さな村に比べれば歩く人の数は多く、年齢も性別も様々だ。すぐ近くの村に異変が起きたというわりに、特に慌てる様子もないのは、あくまでここが皇帝の統治する本土であるという安心感が理由だろうか。たまに不安そうに村の方に出現した歪みを見る人はいるけれど、ほとんどは己にはあまり関係ないとばかりに日常を過ごしている。
きっとそれが、正しい対応だ。だって、自分たちではあの異変をどうすることもできないし、その原因を突き止めることだってできるはずがないのだから。
──何があったのか、知りたいって思うよ
ファルファッラは、そう願っていたけれど。彼女の願いを叶えてやりたいと思うけれど。やっぱりアーリィには、どうしてやることもできないのだ。
(そういえば、ファルの隣にいたあの人は誰だったんだろう)
ふと、あの事件の際に、ファルファッラの隣に見知らぬ女性がいたことを思い出す。村の中では見たことがない人だった。今年で十六歳になるアーリィよりいくつか年上のように見えた髪の長い彼女は、いったい誰だったのだろう。彼女もまた、あの歪みの中に取り残されているのだろうか。
あの男といい、よりによって事件の日に二人も村に訪問者がいたというのは、なんだか不思議な偶然だ。少し考えて、あの女性についてわかる範囲で調べてみよう、と思った。アーリィですらなんとか逃げ出せたのだ。明らかに自分より力が強そうな彼女も、あそこから逃げ出せている可能性は高い。それに、彼女は男のことを知っているようだった。話を聞ければ、何かが変わるかもしれない。
そうと決まれば、アーリィは大通りから離れて一本奥に入った小道の壁に寄ると、そっと手のひらに意識を集中させる。本当は杖といった、補佐的な道具がある方が、もっと細かいことまでできるようになるのだけれど。本格的な魔法を使うのは、あまり得意ではなかった。
「灯よ。翼を羽ばたかせよ。消えゆく塵が秘めし揺らぎを探したまえ」
呟きと同時に、手のひらの上に小さな炎が生まれる。それはゆらゆらと揺らめくと、やがて小さな鳥のような形を作った。
アーリィが調べてほしいことを小鳥に告げると二度、三度とその場で羽ばたいてから、大きく上昇する。これで、何かしらの情報は記録して戻ってきてくれるだろう。これは術者から離れた場所で起きたことを集めてくれる、いわば情報収集用の魔法だった。
(……そういえばあの男、ほとんど詠唱しなかったな。単語を重ねるだけで威力を上げるなんて、かなりの使い手だ。助けてくれてたあの人に至っては単語すら言わなかったし……あの二人は何者なんだろう)
魔法とは、この世界に満ちる、目に見えないほど小さな精霊に「お願い」をして、奇跡の祝福を与えてもらうことだ。
かつてこの世界に多く存在した神秘の生き物たちの魔力から生まれた精霊たちは、当然だがヒトとは違う理の中で生きている。そんな彼らがヒトの力になって、共に生きられるようにと理を敷いたとある神秘によって作られたのが魔法である。
そして、彼らに助けを乞うためのお願い文が詠唱だ。「私が持つ魔力を差し上げますのでどうかこれこれこのような魔法を使わせてください」と伝えて奇跡を起こす。そして丁寧であればあるほど気分を良くして多くの力を貸してくれるから、強い魔法はそれだけ詠唱に時間がかかるというのが常識だった。
実際、あの時ファルファッラを守ろうと詠唱を大幅に短縮して咄嗟に作り上げた炎の壁は、何も守れずにあっさりと壊れてしまった。いくら急いでいたって、誠意が足りないと却下されてしまえば、魔術師たちは普段通りの力すら出せないのだ。
だから、あの男のように短い単語を重ねて魔法を使う人も、ましてや無詠唱で魔法を使う人も、アーリィは見たことがない。一応、あらかじめ紙などに精霊へのお願いを細かく記載した魔法陣を描いておいて、使用したい時に魔力を込める、というやり方も存在はしているけれど。あれは下準備が大変なこともあって、一度の詠唱では時間がかかりすぎるような、大きな魔法を使う時にしか使用しない方法だ。
それにあの男は。あの見知らぬ女は。そんなものすら、用意していなかった。いちいち詠唱や魔法陣といったお願い文を用意せずとも力を貸してもらえるような、精霊たちに信頼される魔術師なのだろうか。
(そもそも雷の魔法とか……それに近いものは出せても、ああはいかないな。もう一人に至っては何してたかもわからない)
精霊が授けてくれる祝福は、水と土と火と風の四つの属性に因んだものだけだ。それらとは違う属性の魔法なんて、それこそ皇帝のように精霊の力を借りず己だけの魔法を使える神秘の存在しか使えない。まさか彼らはヒトではないのだろうか。なんて。さすがにそれは突飛な発想過ぎるかと肩をすくめる。
きっと一般人で凡人には思いつかないような事情があるのだろう。でもきっと、それほどに優秀な魔術師ならどこかしらに情報も落ちているはずだ。小鳥が飛んで行った空を眺めながら、アーリィはふうと息を吐いた。

「火の精霊の力を感じると思ったら、何か探し物でもしてるの?」
「え、」
とん、と。後ろから誰かの声がすると同時に、顔の横の壁に誰かの腕がつく。いつの間にこんなに近くに人が、と驚いて振り返って、アーリィは再び息をのんだ。
その距離の近さに、というより、その相手の姿に、だ。とても美しい人だった。整いすぎた顔は男か女かすぐにはわからなくて、その強い瞳にぞわりと震える。反射的に目をそらそうと思ったが、その下にある美しい体がずいぶんと派手に露出していることに気付いて、慌てて視線を明後日の方向に飛ばした。
それでもちらちらとそちらを見てしまうのは、年頃の反応としては仕方のない範囲だと許してほしい。何せとんでもなく顔がいいうえに、見える肌もすらりとした体のラインも美しい。短い髪についた髪飾りも、左肩にかかるペリースも、その肢体や胸を覆う薄く長い布も。目立つ衣装のはずなのに、どれも本人の美しさを整えるだけの付属品でしかなかった。
たぶん、男、だとは思う。見える手足は細いし、惜しげもなくさらされた太ももも腹も美しいけれど。この体つきはたぶん、男。それでも美少年にこんな風に密着して壁に追いやられる経験などなかったから、どう反応するのが正しいのかもわからない。突き飛ばしていいのだろうか。いや、怪我でもさせたら自分の方が泣いてしまう気がする。せめてと後退りしたけれど、そもそも壁際にいるのだ。距離はあまり開かなかった。
今日はなんだかわからないことばかりだ。あんまり悩みすぎても疲れちゃうのに、と誰にともなくぼやきたくなるのをぐっと堪えて、アーリィはなんとか笑みを絞り出した。
「ああ、ええと。人を探していて」
「ふぅん。奇遇だね。僕もお前を探していたんだ」
「ボク?」
すう、と彼の目が細くなる。それがなんだか艶やかに見えて、じわじわと顔が熱くなっていくのがわかった。どきどきする。照れている。彼から目が離せなくなる。
けれど、そっと、彼の手が首筋に伸びてきて、指先でゆっくりと撫でるものだから。まるで命を握られているような気がして、急に怖くなってくる。単純だ。ほんの少し感じた命の危機に、ときめいていたはずの心臓は突然夢から覚めたみたいにぎゅっと痛んだ。
「お前、アンジェリカを知っているだろ?」
ひゅ、と息をのむ。
知らないはずの名前に、周りから音が消えたような気がした。
知らない。そんな名前の知り合いはいない。だから彼の質問には首を横に振るべきだ。けれどなぜか、アーリィはそれが、誰を示しているのかわかってしまった。その名前を知っていると、直感的に理解する。じわりとその名前を飲み込むほど、彼の気に当てられて舞い上がっていたはずの体温が冷えていくのを感じる。
……炎の中だ。真っ黒に塗り潰された、星も見えないような暗い空の下で、燃え上がる炎だけが眩しい。その中心。中央。見上げる先。不揃いな紅い髪が揺れて、黄金の瞳が己を見つめている。アリィ、と。己の愛称を囁いて、それから。
「っし、知らない!」
反射的にそう叫んで、大きく後ろに下がる。もちろん後ろは壁だ。すぐにぶつかって距離をとることなんてできない。
でも逃げなければ。逃げなければいけないと、頭の中で声が響く。この名前を知ってはいけない。すべての内臓が握りしめられているように痛くて、息苦しくて、急に呼吸の仕方さえわからなくなったような気がした。
だめだ。だめなのだ。意味は分からないけれど、その話をするのも思い出すのもしてはいけないとパニックになる。じわりと涙が滲んで、そんなアーリィを怪訝そうな顔で見てくる美少年が、とても恐ろしい存在のように映った。
「はあ? そんな反応しておいて何をとぼけて、」
「知らないったら!」
先ほどまでためらっていたことなんて忘れて、彼を思い切り突き飛ばして逃げ出す。思い出したくないことをほじくり出されるような気がして怖かった。何もかもを振り切るように、この道がどこに続くのかもわからないまま、とにかくがむしゃらに走った。

「うわっと!」
「っ、」
だから当然、小道を抜けた先に人の影を見つけたところで、急に立ち止まるなんてことはできない。どんっと思い切り衝突して、どちらも衝撃を落とすことができずに地面に倒れこんだ。
最悪だ。みっともなく動揺して、誰とも知らない人に迷惑をかけた。混乱した頭にいきなり冷や水をかけられたような気分になって、アーリィは慌てて相手を助け起こした。
「ご、ごめんなさい!」
「いえ……」
大丈夫ですか、と聞こうとして、あ、と声を漏らす。
長い髪。青いケープ。遠目からだったから、それ以上細かいことは覚えていなかったけれど、間違いない。今ぶつかった相手は、あの時ファルファッラと一緒にいた女性だ。
まさかこんなところで会えるなんて。助け起こそうとした手でそのまま強く腕を掴むと、彼女は困った顔でアーリィを見上げた。
「キミ、ファルと一緒にいた……うぎゃあ!?」
彼女の後ろから飛んできた何かに、情けない悲鳴を上げてアーリィは再び尻もちをつく。その後も黒い影のような刃が二度、三度と飛んでくるのが見えて、明確な敵意に青ざめる。誰かは知らないが、人に向かってこんな魔法を使うとは何事だ。あわあわと彼女の手を引いて逃げようとするが、うまく立ち上がれない。情けなさに泣きそうになったところで、ぶんと繋いでいない方の手を振るった彼女の魔法によって刃はどこかへと消えていった。
いったい何なのだろう。先ほどの少年が怒って追いかけてきたのだろうか。いや、飛んできた方角的に、目の前の彼女が誰かに追われていたということになる。
「……増えているな」
なんとか冷静になろうとするアーリィの耳に、低い声が響く。彼女がやってきた方向から歩いてくるのは、一人の男だ。まだ年若く見えるが、彼の胸元にはフロストと同じ、騎士であることを示す勲章が揺れている。
フロストと違って冷たく、突き放すような目でこちらを見据える男は、腕を掴んだままのアーリィを見て、すっと目を細めた。
「そこの神官。そこの女を捕まえていてくれ」
「え、あ、ええ?」
「……それ以上何かすれば、ひどいですよ」
「へあ?」
騎士の要望を理解するより先に、ぐっと顎の下に何か硬いものが挟み込まれて硬直する。腕を掴んでいたはずの彼女が、いつの間にかアーリィに後ろから抱き着くようにして顎の下に杖を挟み込んでいた。
物騒な凶器ではないし、これくらいで怪我なんてしないけれど。魔法の力を増幅し、扱いやすくするための杖を向けられているというのは、単純に危険だ。しかも彼女が詠唱を必要としていないことは、つい先ほど確信してしまったところなので、いつ攻撃されるかわからない。
ひええ、と思わず情けない声を零したアーリィを見て、騎士の男が顔をしかめた。
「彼を人質にする気か」
「あなた方のご主人様に会っている余裕がないんです」
じり、と彼女が後退りするのに合わせて、アーリィも下がる。どうにも緊迫した空気が流れていることはわかるが、どちらの名前も知らなければどんなやり取りをしていたのかもわからないから、状況が何一つ呑み込めない。
ただ、己は今人質になっているらしいということと、場の空気にそぐわないような素っ頓狂な声しか出せないでいるということしか、アーリィにはわからなかった。
(ど、どういう状況なんだこれ。騎士に追われてるとかこの人、何かしたの? でもファルを守ってくれてたみたいだから、悪い人じゃないはずで、でも、ええと、そもそもなんでこんなことに!?)
男の足元で、影がざわりと揺れる。今度は何が起きるのだと身構えれば、それより先にするりと彼女の手がアーリィの胸を撫でた。
「借りますよ」
「な、なにを、…っひあ、」
「リル!」
男が叫ぶと同時に彼の足元にあった影が大きく伸びて、帯のようにこちらへと飛ばされる。だがそれが二人に危害を加えるより先に、カッと胸が熱くなって。
がくん、と。どこかに落ちるように、アーリィの意識は落ちた。

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