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ふ、と意識が浮上する。静かな場所から持ち上げられるような感覚。急に体が重くなるような、あたしがここに生まれ落ちるような、目覚めの感覚がする。
目を開く前に感じるのは匂いだ。古い紙の匂い。それから心地よい笑い声が鼓膜を震わせる。まぶたの裏に明るさを感じて、ああ、朝が来たのだと、あたしはホッとして体の力を抜いた。
「夢の中ではお寝坊さんなのかしら」
違うよ。すぐに起き上がるとくらくらしちゃうから、ゆっくりしているだけだよ。
そう言い返したくてそっと目を開くと、目の前には長いテーブルがあった。椅子は二つ。あたしが座っているものと、一番遠くに対面して置いてあるものだけ。ここはどこだろうと思ったけれど、そんな疑問は何故かすぐにどこかに消えてなくなった。
視界が回ってしまわないように、意識してゆっくりと首を回す。部屋はそんなに広くない。このテーブルと四方に大きなガラス張りの窓があるだけだ。扉もない。その外には鮮やか花が咲いているのがカーテンの隙間から見えるけれど、もっとよく見ようと思う前に、見知らぬ女の人の手によって、カーテンを閉められてしまった。
その女の人は、とても、綺麗な人だった。空みたいな色をした長い髪の毛も、きらきらと陽の光で煌めく翡翠の瞳も、いつまでもぼうっと眺めていたいくらいに視線を捉えて離さない。でも、ひらりと揺れる白衣はくたびれていて、ちょっと似合わないなと思った。
「だぁれ?」
「不思議なおねーさん」
人差し指を唇に当てて、ふわりと落ちてくる声が耳に心地よい。優しい夢の中でまどろんでいるような気分になる。あの暗がりで聞いた声とは違う、耳に心地よい音だ。
じんわりと目を閉じて、聞き入って。ふわふわとした気分のまま、こてんと首を傾げた。
「……あたし、何をしていたんだっけ」
「ふふ。まだ寝ぼけているのかしら。私とティータイムを楽しんでいたのに、途中で寝てしまうから」
そうだっけ。そうだったかも。テーブルの上には紅茶とケーキが乗っているから、そうだったかも。さっきまでは何もなかった気がしたけれど、気のせいだろうか。
優しく頭を撫でてくれる手が気持ち良くて、あたしはまた目を閉じる。まだおねむなのね、とからかう声はやっぱり耳によく馴染んで、深く何も考えられない。
ふわふわ。ふわふわ。夢心地。
「目が覚めたら、お散歩に行きましょう。広場に美味しい紅茶屋さんがあるのよ」
「紅茶屋さん……」
「そう。とても美味しいわ」
「……お散歩、行けるかな」
「ええ。おまじないをかけてあげる」
額にとん、と。指を当てられる感覚。それから、その指先から何か温かいものが流れ込んでいる気がして、あたしは目を開いた。
その綺麗なおねーさんは、やっぱりとても綺麗に笑っていて。
「でも決して、「いいよ」と答えてはダメよ」
軽いノックの音がして、ふっと再び意識が浮上する。さっきも感じたばかりのその感覚に、あれ、と首を傾げながら瞼を開いた。
あたし、何をしていたんだっけ。夢を見ていたような、夢も見ずに眠っていたような。記憶が混濁している感じがして、あたしはゆっくりとまばたきをする。そもそもここはどこだっけ。あたしは熱を出していたんだっけ。あたしは何をしていたんだっけ。
「起きても大丈夫?」
ぐるぐると考えているあたしの視界に、ひょっこりと誰かが入り込む。一瞬びっくりしたけれど、そういえばノックの音が聞こえた気がしたのを思い出して、上げそうになった悲鳴を飲み込んだ。
髭や髪に白い色が混じったそのおじさんは、あたしが動揺しているのもちゃんとわかっているのだろう。驚かせてごめんね、と言って笑うと、ベッドの横に椅子を引きずって、よいしょ、と座った。
「……ええと……」
「ぼくはフロスト。騎士団に入っているおじさんだよ。様子を見に来たんだ」
ちょっと失礼、と声をかけてから、額に手を当てられる。大きな手で、ちょっとだけびっくりした。ママとパパのどちらの手より大きい。フロストさんの方が背も大きいから当然なんだけど、なんだかそれがとても新鮮に感じた。
額に手を当てて、次に首筋に手を当てられて。熱を計り終えたらしいフロストさんは満足そうに笑って、いい子いい子と頭を撫でてきた。
「うん。熱も下がったみたいだ。食欲はある? 果物くらいは食べられるかな」
「うん……ある」
「よかった。じゃあ、今持ってくるね」
ぱたぱたと駆け足で出て行ったかと思えば、あたしが上体を起こしている間に戻ってくる。持ってきたリンゴの皮をいそいそと剥いている様子といい、なんだか動きが可愛いおじさんだ。なごむというか、安心するというか。不思議な魅力のおじさんである。
リンゴの皮をウサギの耳みたいに切って寄こしてくれたフロストさんに、可愛い、と素直に言えば、ふふんと嬉しそうな笑顔が返ってきた。
(あ、お散歩)
しゃくり、しゃくり。小さく切ってもらったそれをゆっくりと嚙みながら、唐突に「お散歩に行かないと」と思った。
ちょっと記憶が混濁しているくらいの病み上がりなのに、何を考えているんだろう。いや、大丈夫。もう平気。村が変なことになって帰れなくて、現実が受け止めきれなくて熱を出しただけだし。そうそう。びっくりして熱を出すのはいつものことだから、別に平気。
気持ちはすごく元気だ。でもまだ寝ていた方がいいだろうとも過去のあたしは言う。でも行かないといけなかった気がする。あたし一人じゃ無理でも、アーリィに一緒についてきてほしいって言えば大丈夫かな。あれ、そういえばアーリィはどこに行ったんだろう。
「アーリィ……」
「ああ、アリちゃん? 彼なら町に出てるよ。ほら、書置き」
小さく呟けば、フロストさんが机の上に置いてあった、「買い出しに行ってきます」と几帳面な文字で書かれた紙を見せてくれる。
なら、彼のいない間にお散歩に行くのはいけないことだろう。彼の帰りを待って、それからじゃないと心配をかける。そう、わかっているけれど。どうしても今、行かないといけないような気持ちになってしまって、そわそわする。
言っていいのかな。お願いしてもいいのかな。困らせるだけじゃないかな。
もじもじと体を揺らしていると、フロストさんはどうしたの、と優しく聞いてくれる。とてもありがたいけれど、この人をこれから困らせるのかと思うとすごく罪悪感がこみあげてきた。でも、言わないと。言わないといけない。いけないのだ、あたしは行かないと。
「あ、あの……あたしも、お散歩に行きたいなって……」
「え、大丈夫なの?」
「ずっと寝てるよりはよくて……でも、いつもは一人じゃなかったから」
やっぱり一人だとダメかな、と。せっかくかき集めた勇気を台無しにするみたいに、あたしは弱弱しく呟く。
だって。どうしてか外に出ないといけない気がするけど、その理由はわからないし。病み上がりの時に調子に乗って動くと、またすぐにベッドに逆戻りになることなんて自分がよーくわかっているし。いつも気持ちに体がついてこなくて、結局何もできずに寝るしかない、なんて、よくあることだから。それなのにお散歩に行きたいと伝えるのは、なんだかとんでもなく恐ろしい我儘に思えたのだ。
フロストさんはやっぱり困ったように首をひねって、うーんと唸る。そうだよね。ごめんなさい。忘れてください。そう言おうとして、それより先にぽんと頭を撫でられた。
「ここでおじさんも一緒に行くよ、と言えればいいんだけど。ごめんね。報告とかしないといけないからさ」
「う、ううん。ごめんなさい」
「だから、条件が二つあります!」
ピッと指を二本立てて、にっこりと笑うフロストさんにぱちぱちとまばたきをする。
あれ、あたし、怒られるつもりだったのに。予想してなかった言葉にきょとんとするあたしに、フロストさんは本当はダメだとは思うんだけどねえ、と神妙そうにうなずいた。
「確かにずっと寝てても窮屈だし、これで勝手にいなくなられる方が困るからね」
「そ、そっか」
「なのでまずは時間制限。おじさん、一時間後くらいに戻る予定だから。それまでだったらいいよ。二つ目! おじさんの魔法を使わせてもらいます」
何かを小声で呟き始めたフロストさんの指先に、水滴がぷかぷかと集まってくる。魔法だ、と観察していると、それはやがて小さな水の魚の形になって、くるりとその場で一回転してみせた。
「わ……!」
「観賞用みたいなものなんだけど……少しでも気分が悪くなったら、この子に言って。おじさんに連絡とれるようになってるから」
何かの拍子に消えちゃったら、それはそれで異常事態だって駆けつけるからさ、ともう一度頭を撫でてくれるフロストさんは、たぶん本当に、本当に、とってもいい人なのだと思う。何か問題が起きたら困るから準備をするし、責任を取る覚悟もあって、そのうえで相手のしたいことをさせてくれる、いい人なんだと思った。
そんな人に我儘を言ってしまったことを恥ずかしく思いつつ。でも、これでちゃんと外に出られると安心しているあたり、もしかしたら断られた時は、本当に勝手に外に出ちゃったかもしれないなと、自分の中にある変な感覚に首を傾げる。
手が透けてしまって触れない水の魚を撫でるふりをしながら、あたしはできる限りの笑顔を浮かべた。
「ありがとう!」
「どういたしまして」
とはいえ。いくら許可をもらったからって、そのまますぐに外に出るのは、ちょっと抵抗がある。だって、寝汗をいっぱいかいていたので、着替えないのも体を拭かないのもあり得ない。なので持ってきてもらったお湯で体を拭いてから、これまた用意してもらっていたワンピースに着替えて部屋の外に出る。
正直、先ほどまで感じていた申し訳なさなんて、扉に手をかけた時には忘れていた。すごくどきどきしている。お散歩は毎日の日課だったけれど、村の外に出るなんて初めてだから、どきどきしていた。
(人酔い、とか、するかも……?)
緊張した顔のまま宿の扉に手をかけて、ゆっくりと深呼吸する。意を決して出た外は、やっぱり村と比べてずいぶんと人が多く感じられた。
当然だけど知らない人ばかりだ。あたしと年の変わらない人もいっぱいいる。さすがにここも田舎寄りではあるし、別の国というわけでもないから、家の外観も村で見たものとそんなに変わらない。匂いも、着てる服も、がらりと雰囲気が変わっているわけでもなんでもないのに。あえて言うなら、地面にレンガが敷いてあるのが珍しいくらいだろうか。
それくらい。それくらいしか違わないのに、村の外を知らないあたしにとっては、まるで知らない世界に来てしまったみたいに感じられて、わあ、と全身を熱い何かが駆け抜けていくのがわかった。
これは少し危ない。あんまり興奮してしまっては、いきなりフロストさんを呼び出すことになりかねない。あたしは意識して深呼吸を繰り返しながら、道の端の方を歩く。
すぐに帰れるように、今日は宿の周りをぐるっと一周するくらいにしよう。そう思うけれど、あたしは大通りに行かないといけない気がする。また変な使命感のようなものを感じて、うーんと手の甲を口に当てて考え込んだ時だった。
「おやおや、こんなところで奇遇ですねぇ、お嬢さん!」
悩んでいるあたしの耳に飛び込んできた声に、ざわりと肌が粟立つ。耳の後ろが急に熱くなるような、ぞわぞわと何かがこみあげてくるような。あまり好きではない感覚を引きずり出したこの声は、もちろん聞き覚えのあるものだ。
ある意味では聞きたかった声。でも出来るならもう聞きたくないような声。あたしはどきどきしすぎて震える手をぎゅっと握って、ゆっくりとそちらへと顔を向けた。
宿の隣。大通りに面してはいるけれど、こぢんまりとしたお店。その外に並んでいる椅子と机は、たぶん、前に本で読んだテラス席というやつだ。そこに座っている人が、あたしに向かってひらひらと手を振っている。
その人の顔を、まじまじと見たことがあったわけじゃないから、少し不安だったけれど。でも、あの服にいまいち似合わない黄色いマフラーは見覚えがある。そのわざとらしい笑顔にも、声にも、ちゃんと覚えがある
あたしに笑いかけているのは、ママとパパを襲っていた男の人、だ。
「せっかくです。一緒に紅茶でも飲みませんかぁ?」