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「な、なんで、」
「ここはほど近い場所ですからね。避難にはちょうどよかったんです」
貴女も来ていたんですね、と笑うおにーさんは、気まずさなんて欠片も感じていないようだ。ただ知っている人を見かけたから話しかけました、という顔をしていて、ぎゅうっとお腹の底が痛くなる。
あたしの村、あなたのせいであんなことになったのに。
そう言ってやりたいのに、どきどきと騒ぐ心臓のせいで呼吸するだけでも精いっぱいだ。いろんなことがあたしの中でぱんぱんに膨れ上がっていて、上手に言葉が出てこない。
そんなあたしを見てどう思っているのかは知らないけれど、彼は再び目の前の席を勧められてくる。正直座りたい。でも、いいよと言ったらダメなんだ。確かそう。誰かにそう言われた。でも聞きたいことがある。この人から聞かなきゃいけないことがたくさんある。だからここから離れる選択肢はなし。でもいいよってうなずいたらダメ。
ぐるぐると考えてから、あたしはうなずいたりはしないまま、おにーさんの前の席にどっかりと座った。
「お、お茶だけ! もらいます!」
「ずいぶんと図太い言い回しだ」
「あたし、あなたから話を聞く、権利があると! 思います!」
なんとか言葉を絞り出すあたしのそばを、ふよふよと水の魚が泳ぐ。それはちょっと、あたしの心境的にはのんきすぎる動きだったけれど。彼にはそれが楽しく映ったらしい。
にこにことおにーさんが店員さんを呼び止めて注文をすれば、数分も経たずに紅茶が運ばれてきた。いい匂い。一口飲む。わ、美味しい。パパが好きそう、とちょっと頬を緩めれば、さて、とおにーさんが口を開いたので、慌てて表情を引き締めた。
「ところで、あの一緒にいた観測者はどこにいるのでしょうか」
「観測者?」
「あの髪の長い女性のことです」
あたしとおにーさんの共通の知り合いなんて、数えるほどもいない。だからそれは間違いなく、秋帆さんのことだろう。
少し考えて、そういえば秋帆さんは今どういう状況にいるのかわからなくてまばたきをする。どこに行ったんだろう。アーリィはあたししか助けられなかったって言ってたけど、あの人もまだ村にいるのかな。それともこの人みたいに、一人でなんとか逃げ出したのかな。
わからないことが増えてしまったことにちょっともやもやして、あたしは素っ気無く答えた。
「知らないよ。あたし、さっきまで寝込んでたんだもん」
「それはそれは。まさかあの程度で驚いて? ずいぶんと繊細なんですねえ」
「そうだよ。びっくりしたし、お散歩の後で体力も減ってたんだから熱を出さないわけないよ。むしろ熱を出したのが二日で済んで、すごくラッキーな方だよ」
季節の変わり目なんて、いつも微熱が続いているのが普通だ。熱はあるのに微妙に元気だから遊びたくなるのに、実際にはまったく体力がなくてすぐに倒れちゃう、なんていつものこと。体はいつだって重たいけれど、なんでか気持ちはいつも元気だからままならない。
だから今回は寝込んで意識がなくて、起きたらわりと動けて、って。とても珍しい回復の仕方だ。いつもこうだったら、もっといろいろと楽なのに。そうじゃないなら、もっとおとなしい性格だったらよかった。いや、そこまで明るくて元気いっぱいな性格ってわけでもないけど。
なんだかいろいろと中途半端だなあ、と何度目かもわからない自分の体に悲しくなりつつ、こくこくと紅茶を飲んでいれば、おにーさんがなんだか苦い顔をしていることに気付く。あたしが思ったより体が弱くてびっくりしたのかな。ぜひもっと反省してほしい。
「おにーさん、お名前は?」
「まず自分から名乗ってはどうですか」
「ファルファッラだよ。ファルファッラ・アーロス」
「素直ですね。ディストです」
「ディストおにーさんは、ママとパパに何をするつもりだったの」
素直に。直球に。そう問いかければ、ディストさんはじっとあたしを見る。
その翡翠の瞳は、最近どこかで見たことがあるような気がするけれど。ディストさんのそれは、思い描くそれよりずっと濁って見えた。
「ドクター・アーロスの魂がほしいのです」
静かに落ちてきた言葉の意味を、あたしはいまいち理解できない。
魂がほしい。それは、確かに家の前でも言っていたことだ。
でも魂がほしいって、どういうことだろう。魂という概念はわかる。その人がその人であるためのものだ。でも見えるはずもないそれを手に入れることなんてできるのかな。あたしが知らないだけで、魔法を使える人はみんな当たり前にできることなのかな。
「魂を……?」
「もちろん、私にも事情がありましてね。村がああなったのは誤算でしたが……他の人間に害を与えてでも、どうしても助けたい人がいる。その人を助けるためには、純度の高い魂が必要になる。この条件に合う人なんて、そうそういません。だから、彼女を尋ねました」
「魂を取られたらどうなるの」
「さあ? その後の容体なんて見ていませんから、知りませんね」
そんなの無責任だ。自分の目的のためなら、相手がそのまま死んでしまっても構わないということだ。それなのに「借りたい」とか、いつか返しますと誤解させるようなことを言うのはうそつきだ。
にこりと笑うディストさんはどこかの紳士みたいなのに、言っていることもやっていることもなんだかめちゃくちゃで、あたしは自分の顔が強張るのがわかった。
「まあ、別に貴女のお母様でなければだめ、なんてことはありませんよ。極論、貴女だっていい。よく見ればずいぶんと変わった形をしているみたいですし。まあもっと言えば、あの観測者を使うのが一番都合がいいのですが」
「……難しい言い回ししないで」
「これはすみません。小さい子供の相手など、あまり経験がないもので」
わざとらしく手を広げて肩をすくめる様子はなんだか芝居がかって見える。この人、本当のことを話してくれているのかな。
どんどんと信用が下がっていって、もういい、って帰ってしまいたいけれど。でもまだ、話は終わっていない。この人が「魂がほしい」なんてよくわからない理由でママたちを襲ったのはわかったけれど、それがどうしてあんなことになったのかも、秋帆さんとの関係も、まだまだわからないことばかりだ。
「秋帆さんとは知り合いなの?」
「まさか! 私はあんな人でなし、知りませんよ」
ディストさんの言い方になんだかムッとして、あたしはちょっと乱暴に紅茶の入ったカップを置く。カチャンと音が耳障りに響いた。お行儀が悪い。怒られそうだけれど、気にしていられなかった。
「だってそうでしょう。あれ、ヒトではありませんし」
けろりと返ってくる言葉に、どういうことだと眉を顰める。上品な仕草で自分の紅茶を一口飲んでから、彼はふ、と急に優しい目であたしを見た。
「貴女も可愛そうに。器と魂の大きさがちぐはぐだ。それじゃあ、体も上手に機能しないでしょう。あの女が一目でそれに気付かないはずがない。なのに、何もしてあげなかったんですね」
「え、と……?」
「どうでしょう。私が貴女を助けて差し上げてもいいですよ」
何を言っているのだと問い返す前に、するりと手を握られる。ぞわりとした。何か悪意をぶつけられている気がして、急に怖くなった。
きっと、あたしが何か考える前に言葉をぶつけて、話の主導権を握ろうとしているのだろう。秋帆さんはヒトじゃないって、その話の続きをしないまま大きさがちぐはぐだとかなんとか、またあたしの知らない話を始めているのはそういうことだ。
「そんな体を捨てて、魂を明け渡すのです。そうすれば苦しむことはないし、用事が済めば自由の身。あの村にある歪みだって気にせず中に入ることができる。いいえ、むしろあんなことになった理由を知ることだってできるでしょう!」
貴女のご家族にもきっとすぐに会えますよ。
そう続く言葉は、聞いてはいけないことだ。うなずいてはいけないこと。本当に「いいよ」と言ってはいけないこと。とてもいい提案のようで、ようするにあたしに死ねと言っているのと同じようなことだ。魂を渡した後どうなるのかは知らないって、さっき自分で言ったんだから。
別に、死んでしまうかもしれないという脅しはあたしにはあまり重要ではない。高熱を出した時。目の前が真っ暗になって倒れた時。体に力が入らなくて寝ていることしかできない時。夜、眠る時。あたしはいつも、死んじゃうのかなあ、って思ってきたから今更だ。
あたしが今、嫌だって思っているのは、ママとパパを都合のいい材料にされていることだ。詳しいことはぼかして、誤算だったと村に帰れなくしたことをさらりと流して。自分の目的にだけ集中して、あたしのことを置き去りにした話をするのが嫌だ。こんな人のために死にたくない。この人に渡すものなんて何もないと、あたしはぐっとディストさんの手に爪を立てた。
「そ、それは、秋帆さんにお願いしたら、あたしはあなたに「どうしてあんなことしたの」って、もっと怒ってもいいってこと?」
ぽろりと出てきた言葉に、あ、そっか、と急に納得する。
怒ってるんだ、あたし。
この人に。急に変わった状況に。結局はぐらかされていることに。秋帆さんのことを人でなしって言われたことに怒ってる。あのざわざわした感覚は、怒っていたからだ。
怒るのは慣れていない。だってとても疲れるから。怒っていると胸が痛くて、苦しくて、あたしの方が倒れてしまうから。だから怒るのは苦手。今もすごく頭が痛い。
でも、ようやっと追いついてきた思考が、さっきのディストさんの言葉を飲み込む。あの女が一目でそれに気付かないはずがない。なのに、何もしてあげなかった。それはつまり、秋帆さんはあたしの体をちょっと丈夫にすることができるかもしれないということだ。
「ここであなたにはぐらかされても、追いかけて聞いてもいいって、そういうこと?」
ディストさんはこのまま何も言わずにはぐらかすつもりでしょ、と睨むけど、彼は目を細めて笑うだけだ。でもきっと、それは肯定の意味だ。
明確な言葉にはしないまま、爪を立てるあたしの手をそっと撫でる。ぞわぞわとする感覚は、怒っているという他にちょっと気持ち悪いとかもあるのかも、とこっそり思った。
「どうでしょう。どうせあの女は貴女を助けてはくれませんよ。それよりどうか、うなずいてはいけませんか?」
「うなずいちゃダメなんだよ!」
再び迫ってきたディストさんをあたしから引き離すみたいに、ぐいと腕を引っ張られる。手は外れた。けれど、ちょっと勢いあまってぐらりと椅子から落ちそうになって、小さな手がそれを支えてくれる。
誰。知らない幼い声。見れば、あたしと同じか、それより小さい女の子がそこにいる。可愛いお団子のツインテールを揺らして、何故か大きな箒をもって、ディストさんのことを真正面から睨みつけていた。
「こいつ、詐欺ばっかりなんだよ。だからダメ!」
「貴女は……」
「やいやいここで会ったが百年目なんだよ! 今日こそぶん殴って、妹の魂を返してもらうんだよ!」
びしっと箒の柄でディストさんを指して、彼女がそう声高に叫ぶ。なんだなんだと周りの人の視線が集まるのを感じて、これって放っておいていいのかな、と助けを求めるようにずっと近くにいた水の魚に目を向けると、途端にごうっと強い風が吹き荒れた。
「風よ集え!」
周囲の人の悲鳴が聞こえる。いくつかのテーブルや椅子が倒れて、カップが割れる音がする。あたしも慌てて椅子にしがみつくけれど、ディストさんと女の子は素知らぬ顔でそこにいて、ただただ視線をかち合わせていた。
「おやおや、こんな場所で喧嘩だなんて品がない。後で弁償するんですよ」
「じゃあ表出ろ、なんだよ!」
「ここも表ですねえ」
小馬鹿にしたように笑うディストさんに、女の子はむきーっと地団太を踏む。
この風は二人の魔法なんだろうか。なんだか地面まで揺れているような気がして、あたしはちょっと気持ち悪くなってきていた。
「……貴女に頼まずとも会えましたね」
ふと、ディストさんが楽しそうに呟く。何の話だと考えるより先に、どこからか馬の嘶きが聞こえてきて、不安になって水の魚を握りしめた。触れないから、手を握るだけだけど。
地面の揺れが大きくなる。気のせいじゃなかったんだと思っている間に、何かが綺麗に敷き詰められたレンガを崩す。地下から何かが飛び出してきたのだ。
それが何か、シルエットすら見えない間に、どてんと女の子が地面に転がるのが見えた。