十一、留守中にごめんね


障子の隙間から、細い陽光が桜子を照らす。
桜子は、うっすらと瞳を開いた。真っ白の陽光に反射的に目を瞑る。
静かな部屋には、小さな寝息が一つあった。チヨ子は、まだ夢の中だ。
桜子は、上体を起こした。寝乱れた黒髪が、白い夜着に零れる。
桜子の脳内は、まだふわふわと雲に包まれていた。昨日、夜遅くまで続いていた三年ろ組の迷子二人の捜索で、彼女は心身共に疲労困憊していたのだ。
桜子は、しばらくその状態で固まっていた。
やがて、彼女はゆっくりと布団から立ち上がった。静寂に布すれの音が響く。
机に畳んであった手拭いを指に引っ掛けて、桜子はのろのろと部屋を出た。
丁度部屋の前を通りかかったソウコが、目を丸くした。
「桜子先輩!」
桜子はゆるりとソウコに視線をやった。とろんとした瞳で、桜子はソウコの頭を撫でる。
ソウコは嬉しそうに頬を染めながら、おはようございます、と笑った。
「チヨ子先輩はともかく、桜子先輩がこの時間に起きられるのは珍しいですね」
「んー……」
桜子は瞳を眠たげに細めたまま、首を傾げる。彼女の脳は、またソウコの言葉を理解していなかった。
桜子はそのまま、ソウコにもたれるように抱きついた。ソウコが驚いて声を上げ、体を揺らす。
桜子はソウコの肩口に頭を預けて、唇を開いた。
「おはよう、ソウコ」
桜子の声は、少し掠れていた。ソウコは肩に力を入れたまま、石のように固まる。
桜子はソウコから離れて、ゆっくりと縁側から下りた。薄桃の唇から、小さく欠伸が零れ落ちる。
「……ソウコ? どうしたの?」
少しして、固まっているソウコを見つけたトモミの声に、ソウコはようやく我に返った。
「わ、私も五年生になったら、あんな声が出るようになるのかな」
「な、なあに?」
「ね、ね、寝起きの桜子先輩が凄くって、ちょっと動揺しているの」
「え? 桜子先輩が凄い?」

桜子は、ようやく井戸に辿り着いた。
穏やかな風に煽られて、黒髪が一房、夜着の襟からするりと内側へ入り込んでいる。
「おはよう桜子、いい加減起きなさいよ」
顔を洗い終えた同級生は、桜子を見て苦笑する。
桜子は、首を傾げるだけだ。
「もう……。忍たまが来るわよ? 実習以外でそんな姿、わざわざ見せてあげることないでしょう」
同級生は、桜子の頭を軽く叩く。しかし桜子は一言「おはよう」と言っただけだった。同級生はやれやれと首を振って、その場を去る。
桜子は手拭いを無造作に首へ引っ掛けた。石畳が、素足に冷たい。
傍らの、縄の付いた桶を、桜子は深い井戸の底へ投げ入れた。意識の片隅で、ばしゃあんという派手な音を聞き取る。桶が水に達したのだと、ぼんやりと考える桜子の耳に、足音は入ってこなかった。
「もう向こうの井戸、満員だったな」
「この時間はだいたいそうだよ。一年は組が勢ぞろいしてるから」
「兵助も八左ヱ門も三郎も、揃って寝坊するなんてなあ」
「昨日は本当に疲れたんだ……まさか方向音痴の二人組があれほどだったとは」
「三町と捜したんだろう? それなのに見つからなかったんだから、相当だな」
「三町さんと?」
「ああ、うん。飼育小屋から帰る途中に、三年ろ組の富松作兵衛に呼び止められてな」
「三町さんって、よく富松を手伝っているよね」
「ああ、仲良いみたいだぞ……ん?」
桜子は、縄を持って少し屈んだ。頬にかかった黒髪を、耳へと掬う。
縄を持ち上げようとした桜子の肩を、何かが叩いた。
桜子は振り向く。と、彼女の頬に、長い指が柔らかく沈んだ。
桜子の目の前で、鉢屋が悪戯っぽく笑みを浮かべた。その隣で、可笑しそうに竹谷が笑っている。
「三町さん、おはよう」
目を瞬く桜子に、久々知は彼も笑った。
その後ろで、尾浜と不破も、笑みを零している。
桜子の脳裏から、ようやく雲が流れ始めた。とろりとしていた瞳に、少しずつ活気が宿る。
桜子はまず、自分の頬を突ついて遊んでいる鉢屋をじとりと睨みつけた。
「おっ、その表情は初めて見たな」
しかし、鉢屋は不敵な笑みをさらに濃くするだけだった。
桜子は、その指を避けようと身を捩る。鉢屋は面白がって、それを追いかける。
思わず一歩後退って、桜子は震え上がった。
「つ、つめた!」
「あれ、三町さん裸足だね」
不破の言葉に、桜子は自分の足先を見る。
彼女は、完全に目を覚ました。
桜子は深くため息を吐いた。鉢屋につつかれないよう、両頬を手で覆って、彼女は苦笑交じりに五人を見る。
「おはよう」
「三町さん、目、覚めた?」
尾浜がにこにこと笑う。桜子は苦笑を深くした。
「うん。……いつもはこんなじゃないの」
「三町もか。俺も昨日ので疲れ果てて……」
「竹谷くん……お疲れさま」
桜子と竹谷は、顔を見合わせてため息を吐いた。
本当に大変だったんだな、と久々知が呟く。
桜子は、鉢屋がようやく手を下ろしたのを見て、井戸に投げ入れたままの桶を引き上げた。
水を傍らの小さい木桶に移して、桜子は井戸に繋がった桶を鉢屋に手渡す。
桜子は木桶を持って、隅へと移動した。鉢屋が桶を井戸へ投げ入れたのを皮切りに、他の四人も動き出す。
透明の水を手に掬い上げた桜子の隣に、柔らかい茶の髪が並んだ。
「三町さん、昨日新刊が入ったよ」
「えっ」
桜子の手のひらから、水が全て桶へ戻った。
桜子が見上げると、不破はにっこりと笑う。桜子は顔を輝かせた。
「『霞扇の教』もある?」
「うん」
「後で借りに行く」
桜子はぐっと拳を握る。『霞扇の教』は、桜子が数ヶ月に渡って待ちわびていた、霞扇の指南書だった。もうすぐ、霞扇の術に関する授業がある。時期的にも丁度良い。
「あ、いいなそれ。俺も借りたい!」
頬を緩ませる桜子の後ろから、ひょっこりと尾浜が顔を出した。
桜子は驚いてその場で少し飛び上がった。尾浜は、桜子の隣に並ぶ。
「雷蔵、それって一冊だけ?」
「うん。予算がギリギリで……」
「そっか。じゃあ俺、三町さんの次に借りるよ」
「あ、それなら」
桜子は尾浜に言った。
「読み終わって返すときに、尾浜くんに言いに行くね」
「ほんと! それは助かるな、ありがとう」
「どういたしまして」
桜子は微笑んだ。
小さく揺れる桶の水を、桜子は再び掬い上げた。顔をひたす。冷たさが、じんわりと染み入ってくる。
桜子は丁寧に顔を洗った。色を使うくノ一にとって、顔と肌は非常に大切な武器なのだ。
井戸ですべきことを全て終えて、桜子は一つ息を吐いた。桶の水を捨てて、井戸で水を汲んでいる竹谷の傍らに桶を戻す。
「お先に」
桜子は手を振った。
五人はそれぞれ、手を振り返した。

部屋へ戻った桜子の格好を見て、チヨ子はぶち切れた。
「桜子!! ちょっとお話があります!!!」
その後少し遅い時間に食堂へやってきた桜子は、朝から疲労困憊していた、とおばちゃんは語る。


11話の裏側


2013.04.02(投稿)


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