十八、育っていくね


帰りも、天井裏を使うことにした。
善法寺が、七松と中在家の部屋の床下ならば、競合地区まで塹壕が続いているはずだからそれを使えばよいと言ってくれたが、桜子はなるべく、他の人間に今日自分がここへやってきたことを知られたくなかった。
気をつけてねと心配そうに言う善法寺と、また茶でも飲みに来いと笑う食満に見送られて、桜子は天井裏へと上る。
そっと板を元の位置に戻して、桜子は少しの間、その場で暗闇を見つめる。
やがて、暗さに慣れてきた目に、行きに突破してきた罠の数々が浮き上がってきた。帰りには、さらに新しいものもあるかもしれない。
桜子は気を引き締めなおして、一歩踏み出した。

右の二の腕に、新しく切り傷が増えた。
桜子は、その傷と、傷の形に綺麗に裂かれた装束とを見て、ひっそりとため息を吐いた。暇を見つけて縫わねばならない。
彼女はようやく、六年生の長屋を脱出したところだった。
ここからは、罠はほとんど無い。食堂へ続く廊下の上を通り、くのたま長屋の廊下を少し行ったところで、地上に下りてしまえばいい。この姿ならば、鍛錬に出ていたと言い通せる。
周囲の気配に気をつけながら、桜子は進む。
少し行ったところで、桜子は、僅かな気配を感じ取った。とっさに、懐のクナイに手を伸ばす。
しかし彼女は、気配が見知った人物のものだとわかって、手を下ろした。
向こうも、桜子に気付いたようだった。どうやら、一瞬の動揺が気配となって出てしまったらしい。
「桜子?」
目の前に現れた竹谷は、片手に何かを包んだ小さな袋を持っていた。
桜子は、内心冷や汗をかいた。
竹谷は、演習では競争相手となる人物だ。何もないならば正直に言うが、今回桜子の行動には演習が関わっている。そして彼女には今、何をしていたのかと問われ、上手く言い逃れできる要素が無い。
桜子は、竹谷が口を開くより先に、彼に問うた。
「八左ヱ門、手に持っているのは何?」
「えっ」
彼は、露骨に動揺した。
桜子は、胸の内でひっそりと安堵の息を吐いた。ひとまず、竹谷の意識は桜子から自分自身へと逸れそうだ。
桜子は、今度は本当に、その袋の中身が気になった。
じっと竹谷を見ていると、竹谷はうー、と頬を掻いて、口を開いた。
「お茶葉だ」
桜子は、目を瞬いた。
竹谷は表情を一転させ、にかっと笑った。
「今兵助と勘右衛門の部屋で勉強会してるんだ。で、お茶葉が切れたから、俺が取ってくることになった」
そう言って、彼は桜子を手招きした。
桜子は、竹谷の隣に並ぶ。仄かにお茶の香りがする。竹谷は袋の口をそっと開けて、桜子に中を指差す。
桜子は袋の中を覗いた。優しい匂いが、彼女の鼻をくすぐる。
「いいお茶葉だね」
桜子は思わず頬を緩めて、竹谷に言った。竹谷はおう、と頷いて、とたんにばつの悪そうな顔になった。
「頼む、おばちゃんには黙っていてくれ……」
桜子は笑って頷いた。
言われなくとも、茶葉だと知ったときから彼女はそのつもりだった。
竹谷は頷いた桜子を見て、笑顔に戻る。それから、彼は不意にあ、と呟いた。
桜子は、きょとんと、隣の竹谷を見る。
「桜子、明日何か特別大事な授業とかあるか?」
「無いよ」
桜子は首を横に振った。竹谷はよし、と笑った。
「じゃあさ、今から少し遊びに来ないか? せっかくいいお茶葉があるし」
今夜の、桜子の目的は既に達成されている。
長居をすればするほど、先生方に感づかれる可能性は高まる。
桜子は、迷うことなく首を縦に振った。
友人がせっかく申し出てくれたのだ。行きたくないわけがない。
要は、先生方に見つからなければいい。
「一杯だけもらおうかな。邪魔にはならない?」
「大丈夫! 皆昼からずーっと勉強で息詰まってるんだ……あー、兵助は別だけど」
言いながら、竹谷は辺りをうかがって、そろそろと動き出した。
(久々知くん、流石だな)
ぼんやり思いながら、桜子は竹谷に続いた。
すぐ後ろに来た桜子を、竹谷は振り返る。
「桜子は、これを持っていてくれればいいから」
そう言って、彼は桜子に茶葉を渡す。
桜子は慌てた。
「私は私で突破するから、大丈夫だよ」
竹谷はすぐさま首を横に振った。
「左腕がそんな状態なのに、無理はさせられない。もともと、そのつもりで誘ったんだ。俺はもう罠の位置全部体で覚えるくらい通ってるから」
竹谷は両手にクナイを持って、それをくるりと回した。
不敵な笑みを浮かべて、桜子を見る。
「信用できないか?」
桜子は少しの間竹谷を真っ直ぐ見ていたが、彼は引かなかった。
桜子は、観念して、眉尻を下げた。
「そんなわけないよ」

竹谷が、天井板をそっと開けた。
「遅いぞー八左ヱ門」
すぐさま、鉢屋が彼に声を掛ける。彼は壁にもたれて書物を読んでいたが、傍らには細工した面が置かれていた。竹谷が出ていくときにはなかったので、恐らく先ほどまで弄っていたのだろう。
「あーあ、疲れたなあ。甘いものが欲しい」
文机に向かっていた尾浜が、背筋と腕を大きく伸ばしながら言った。そのすぐ近くで、不破が俯いて眠りこんでいる。迷い癖が出てしまったのであろうことは、竹谷からすれば一目瞭然だった。
少し離れたところで文机に向かっている久々知は、昼間と全く同じ目つきで、手元の書物に没頭していた。彼の手元の湯呑みだけ、茶がほとんど減っていない。
「ごめんごめん」
竹谷はちらりと桜子を見やってから、部屋へと下りた。桜子は、全身全霊の力で、ひたすら気配を消していた。
(一度姿が見えなくなると、そこにいるとわかっていても本当にいないみたいだな)
竹谷は内心感嘆しながら、桜子にこっそり合図を送った。
桜子が、音もなく部屋へ降り立つ。
「うわっ!」
真っ先に驚いたのは、竹谷の方を見ていた尾浜だった。彼は、円らな瞳を、ますます丸くした。その小さな叫び声で、不破が浅い眠りから覚めた。
次に、書物から顔を上げた鉢屋が、桜子を見て目を見開いた。
「驚いた……気配だけ消して立つなよ」
「うわあっ!」
続いて、不破が驚きの声を上げた。持ったままだった筆が、文机の上を転がる。
竹谷は、次々に驚く彼らを、にやにやと笑って見ていた。
「何で八左ヱ門が自慢げなんだ」
口角を下げた鉢屋が彼に言った。
尾浜はそれに笑って、久々知の方を見た。
久々知は未だ、書物に目を落としている。
「兵助は気付いてないね」
「俺たち、いつもこのくらいうるさいしな」
竹谷が、少し残念そうに言った。桜子は苦笑する。もともと長居する気はなかったが、ますますここにいるわけにはいかないな、と感じた。
尾浜の傍らにある急須に歩み寄る。
「お茶を淹れたら、お暇するね」
「えー、帰っちゃうの?」
「それは私の宿題をやってからだろう」
「そんなチヨ子みたいなこと……」
「……え?!」
と、久々知が声を上げた。続いて、彼は勢いよく振り返る。
視界に桜子をとらえて、久々知は目を丸くした。
桜子は、急須のふたを片手に、苦笑いした。
「気を散らせちゃってごめんね」
久々知は二、三度目を瞬き、肩を落として片手を額に当てた。
「全然気付かなかった……」
竹谷が満足げに笑った。それを、鉢屋がじとりと見る。
「だから、何でお前が自慢げなんだ」
桜子は思わずくすくす笑いながら、お茶を淹れていく。
彼女の手元をじっと見ている尾浜が、口を開いた。
「三町さん、手際がすごく綺麗だなあ」
真っ直ぐな褒め言葉が、くすぐったい。
くノ一教室ではこれが当たり前なのだが、褒められるのはやはり嬉しい。
「ありがとう……よし、できた」
桜子は、手始めに尾浜の湯呑みに茶を注いだ。ほのかに甘い香りが、ふわりと広がる。
上質な茶葉なだけあり、非常に良い色だ。
「あ、僕にもいいかな」
「俺にも頼む!」
「はい」
不破と竹谷から受けとって、桜子はそれぞれに、丁寧に茶を淹れた。
早速お茶を飲みながら、尾浜が笑った。
「何だか、俺すごく贅沢してる気分」
「あはは、確かにそんな感覚するよ」
不破が頷いた。
と、桜子の服の裾が引っ張られた。彼女は急須を置いて、振り返る。
久々知は、湯呑みを二つ持っていた。桜子は、目を瞬いた。
「俺も、淹れてもらっていいかな」
「もちろん」
桜子は、とりあえず二つとも受け取った。
桜子の困惑を知ってか、久々知の指が片方を差した。
「こっちは、三町の」
桜子は思わず顔を上げた。久々知は、にこりと笑った。
「ありがとう」
桜子は、頬を綻ばせた。
まずは久々知の湯呑みを手に取る。
「兵助気が利くなあ」
尾浜がひどく感心して言った。いつの間にやら、彼の手には団子がある。
久々知に湯呑みを手渡し、用意してもらった自分のものへ茶を淹れ始めた桜子の隣に、きつね色の髪が並んだ。
「太るぞ、勘右衛門」
桜子の、急須を持つ手がぶれた。
彼女は思わず、声を立てて笑った。まるで、くのたまの会話だ。
「こら、外に聞こえるだろう」
「ごめんなさい」
桜子はゆっくりと息を吸い、呼吸を落ち着かせて、隣の鉢屋に急須を向けた。
「鉢屋くん、お茶淹れるよ」
と、鉢屋はにやりと笑った。彼は己の膝の上に頬杖をついて、言った。
「淹れさせない」
「へ」
桜子は、思わず声を漏らした。
鉢屋はますます可笑しそうに笑う。
「三町は、全員分淹れたら帰るんだろう?」
桜子は、目を丸くした。
鉢屋の薄茶の瞳が、すっと細められる。
口角を吊り上げて、鉢屋は言った。
「帰れないな?」
「……帰れないね」
桜子は、口元を緩めた。


18話の裏側


2013.08.06(投稿)


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