二十五、偉功を掴め - 三
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「八左ヱ門」
桜子は、短刀をしまいながら、彼を呼んだ。
竹谷の視線が、ちらりと桜子を見る。
桜子は、さらに一歩下がって、竹谷の背に背を付けた。後ろ手で、彼の両手と手を繋ぐ。
「えっ、えっ?」
わかりやすく動揺する竹谷に内心謝りながら、桜子はぐるりと回転した。
桜子の目の前が、キヌヨから、呆気に取られて目を瞬く不破に変わる。
桜子は、竹谷と手を解いて離れた。
「相手、交代しよう」
そう言うが否や、桜子は風のような速さで不破に迫った。
不破はすぐに反応し、拳を突き出す。
桜子は避けた後、そっと手にその拳を添えた。
不破が次の動作に入る前に、桜子は口を開いた。
「不破くん、鈴あげる」
「えっ?!」
声を上げたのは、不破だけではなかった。
示し合わせた作戦でないとわかったのか、不破はきょとんと眼を瞬いた。
「え……いいの?」
桜子は、少し頬を染めて、柔らかく微笑んだ。
「うん」
不破が、困惑の表情を浮かべる。
桜子が先ほどから少し隙を作っていることに、気づいていない。
桜子は、不破の手に添えていた右手を、きゅっと握った。不破が驚いたのが、僅かな揺れで伝わってきた。
「不破くん、頬に口付けさせてくれたら、私から渡すよ」
「えっ?!」
不破は、かっと頬を赤くした。
桜子は、慌てたように付け足した。
「あ、でも、やっぱり自分で取る方が良いよね」
「え」
不破は、桜子に握られていない方の手を、顎に当てた。
「うーん、やっぱりそっちの方が……あっでももし、さ、触っちゃったら悪いし……!! うー……!!」
不破は真っ赤になって、頭を両手で抱えた。
(……よし)
桜子は音を立てずに、すっかり迷い癖が出てしまっている不破の前から姿を消した。
鈴を取られさえしなければ、相手を完全に倒す必要は無い。今は、その時間もない。
桜子は、尾浜と戦う上呂の援護へ向かう。
と、足元でカチリと、ごく小さな音がした。
桜子の顔から、さっと血の気が引いた。彼女は、ほとんど反射的に大きく左へと跳んだ。
先ほどまで彼女の居た場所を、大きな鉄の歯がえぐるようにかじる。
桜子は、止まることなく後ろへバック転した。すぐ後を追うように、嫌な音が響き渡る。同時に飛び出してきた千本が、桜子の右手の二の腕を掠めた。
次々と作動する罠から間一髪で逃げる桜子は、途中で、自分がどこかへ誘導されかけているのに気付いた。
彼女は、確信した。
(チヨ子の罠だ……!)
桜子は、今まで自分が辿った回避経路を脳裏に描く。
(誘導されるままに右へ回避すると、鈴の絵が完成する)
桜子は、最も危険な前方へと走った。
左右から、嵐のように手裏剣が飛んでくる。
全て避けようとすると、最初の一枚を除き全てに当たってしまうという、チヨ子の十八番の罠だ。
桜子は一枚が太ももに刺さったのをそのままにして、他を避けることに専念した。
もう二枚ほどが傷を作ったが、それだけで済んだようだ。
「準備期間に、とりあえず怪しげなとこに仕掛けといたんだ」
頭上から、桜子にとって聞き慣れた声が聞こえてきた。
同時に、気配が三つ、現れる。
まずい。
桜子は駆け出そうとしたが、遅かった。
桜子の前、横、そして斜め後ろで、軽い着地の音がした。
目の前で、チヨ子がにっこり笑った。
「久々に桜子が掛かってくれて本当に嬉しかった! 仕掛けといて良かったなー」
「ああ、本当に助かる」
桜子の横で、久々知が桜子から視線を外さずに言った。隙が、全く無い。
「桜子を他の二人から離せたのはかなり効くな」
彼女の背後で、鉢屋がにやりと笑う。
桜子は、完全に囲まれていた。それも、囲んでいるのは顔を見ただけで逃げ出したくなるような面々だ。
桜子は、一つ大きく息を吸って、吐いた。
動揺してはいけない。平常心を保たなければ、見えるものも見えなくなる。
相手の方が有利だと感じるのは、桜子が数の上で負けているからだ。
鈴はまだ、桜子の元にある。
(人数的に不利だと感じるならば、減らしてしまえばいい)
チヨ子とは、この五年間ルームメイトでずっと一緒に過ごしてきた。互いの実力もわかっているし、癖も熟知している。
武芸においても非常に優秀だと聞く上に、あまり戦ったことのない久々知や鉢屋に比べれば、遥かに戦いやすい相手だ。
(罠の腕は天下一品だけど、武芸では負けない)
桜子は、思い切り地を蹴った。
一瞬遅れて久々知と鉢屋が援護に向かうが、桜子の方が早かった。
ある程度予測していたらしいチヨ子は、桜子の右腕へと蹴りを繰り出した。
桜子は、先日の実習で左腕を痛めている。
(自由に使える右腕も封じてしまおう、というわけではないんだろうな……チヨ子)
桜子は、チヨ子の蹴りをしゃがんで避け、彼女の軸足を払った。
「うわっ!」
チヨ子がバランスを崩した。
桜子は、チヨ子の懐に入って、彼女の胸元を掴む。
チヨ子を背負うようにしながら素早くしゃがむ。手を離すと、チヨ子はすぐ後ろにあった竹へ一直線に飛んでいった。
桜子はすぐに振り返った。
迫っていた久々知の蹴りを跳んで避ける。黒髪が大きく波打つ。
桜子はそのまま、空中から上段で蹴りを放った。
久々知は、眉一つ動かさず、左手で蹴りの軌道を逸らした。
桜子は、体を捻った。逆の足で、再び久々知の側頭を狙う。
久々知は動かなかった。どこからともなく現れた鉢屋が、不敵に目を細めて桜子の足を掴んだ。
桜子は、顔を歪ませた。
(この二人を一度に相手するって、きつい)
鉢屋は、桜子を投げ飛ばした。
桜子は、鉢屋と久々知の動きを見失わないようにしつつ、空中で受け身の体勢を取る。
彼女の後ろに、竹が迫る。当たってしまうことは覚悟していた。
なるべく勢いを殺そうとする桜子の耳に、声が届いた。
「桜子!!」
桜子はふっと、全身から余分な力が抜けたのを感じた。
彼女の背中を、しっかりと、たくましい腕が抱き留めた。
鉢屋の口角が、口布の下で僅かに下げられた。
「ごめん! 援護が遅くなった!」
申し訳なさそうに眉尻を下げる竹谷に、桜子は首を振って満面の笑みを浮かべてみせた。
「ううん、ありがとう!」
竹谷は、彼もにかっと笑った。
その笑顔を見て、桜子は己の心理状態が明らかに変化したのを感じた。
桜子は、今度こそ余裕を持って、久々知と鉢屋を見た。
(倒さなくてもいい。鈴を守りきるのが目的)
「行くぞ? 兵助、三郎」
竹谷が隣で拳を鳴らした。
まず、鉢屋がその場から飛び出した。それにすぐに竹谷が反応する。
横から金属音が響くのを意識しつつ、桜子は久々知を見た。
久々知は、桜子へ的を絞ったようだ。真っ直ぐに桜子を見ている。
桜子は、地を蹴った。その勢いで、拳を繰り出す。
久々知は体を捻った。黒髪が大きく揺れる。久々知の腕のすぐ横を、桜子の拳が掠める。
久々知は、無駄のない動きで、桜子の脇腹目がけて蹴りを入れた。
(避けれない)
桜子は、己の腹にけりが入る前に、久々知の脛をつま先で蹴った。手ごたえは大きい。
直後に蹴りが桜子の脇腹を抉る。桜子は痛みに悶絶しつつ、歯を食いしばって受け身を取った。
すぐ近くまで、足音が迫っていた。桜子は咄嗟に、左へと転がった。右腕のすぐ横を、忍足袋が踏みつける。
(踵落としじゃない。私を倒す必要は無いと考えてる?)
桜子は起き上がって、久々知と距離を取った。脇腹に鈍痛が走り、思わず手でおさえる。
間を詰めようと桜子へ駆け寄る久々知は、それを見て一瞬、眉を歪めた。
桜子がそれに気づく前に無表情に戻り、久々知は桜子へと迫る。
桜子は再び距離を取った。
しかし、久々知の足ではすぐに詰められてしまう。
桜子は、久々知を見た。完璧な無表情だ。
(兵助に通用するかは、わからない。でも少しでも動揺を誘えれば、戦いやすくも逃げやすくもなる)
桜子は、まずはちらりと竹谷の方を確認した。と、竹谷もこちらを見た。
桜子はひたすら久々知から間を取りながら、竹谷に矢羽音を送った。
「八左ヱ門、共同戦線」
桜子が皆まで言わぬ内に、竹谷が矢羽音を返してきた。
「俺もそうしたいと思ってた!」
桜子は口元を緩めて、竹谷の方へ駆けだした。
すぐに合流できる位置まで近づき、桜子は静止する。久々知が、一瞬で目前へと迫った。
桜子は、己の口布を下げた。
久々知が攻撃を仕掛ける前に、彼女は自ら、久々知へと詰め寄った。
久々知の瞳を、至近距離から見上げる。
その双眸は、妖艶な色を孕んでいた。
桜子は、久々知の口布と頭巾とを、彼が気づくよりも早く外した。
久々知が目を丸くする。彼が桜子を突き放そうとするより先に、桜子は右手の指先で、久々知の腰の線をなぞった。背伸びをして、桜子は露わになった久々知の耳元で囁く。
「兵助」
少し掠れた、彼女が出すことのできる極上の甘い声だった。
以前、遊女屋でよく聞きそして教わった、耳から入って脳髄を揺さぶるような声、聞く者に情事後を連想させるような声だ。
全ての動きが止まっていた一瞬の後、久々知が凄まじい勢いで桜子から離れた。
「なっ、うわ」
彼の顔は真っ赤に染まっていた。久々知は口元を手のひらで覆う。大きな瞳をさらに見開いて、彼は混乱しているとはっきり書かれた目線で桜子を見ていた。
桜子は、目を瞬いた。
(あれ……)
くのたまは学園内で忍たまを引っ掛ける実習を行った後、必ず情報交換の場を設ける。
三年生から五年生までの間、久々知が色に惑わされたという話を桜子は一度も聞いたことがなかった。
(私、ものすごく貴重な瞬間に立ち合っちゃったな)
どうやら竹谷と鉢屋の方も、戦闘を中断していたようだった。
真っ赤になっている久々知を、二人は茫然と見ていた。
逸早く我に返ったのは、竹谷だった。
「隙有り!」
竹谷は、久々知の方へ駆けだした。
久々知は我に返った。未だに頬の赤みは引かないが、彼は竹谷を迎え撃とうと後ろへ跳んで距離を取る。
竹谷を先に抑えるつもりか、鉢屋が竹谷の方へ向かった。
桜子は竹谷の援護へ向かおうと、足を踏み出す。
「危ない三町!!」
上呂の声だった。
桜子は、振り返った。
火の付いた焙烙火矢が、恐ろしい勢いで彼女へと迫っていた。
桜子は咄嗟に、胸元を探った。
鈴を出して、竹谷たちの方へ投げる。
目の前が白く光った。
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